米サンディア国立研究所のTimothy Proctor氏らを中心とする研究チームは2026年9月10日、量子コンピューターの計算能力を回路規模と実効処理速度の両面から統合評価する新指標「QUOPS(Quantum Universal Operation Performance System)」を発表した。本指標により、暗号解読や分子エネルギー計算といった実用タスクの要求水準(数億QUOPS規模)と現行ハードウェアの到達点(数千QUOPS規模)の間に約5桁の性能乖離が存在することが定量的に示された。
QUOPSの計測構造と従来評価指標との比較
QUOPSは、量子プロセッサが「どの程度の規模の計算回路を、単位時間あたりどれだけの速度で正しく完遂できるか」を測定する総合性能指標である。量子ビット数や個々の量子ゲートの忠実度(Fidelity)といった単一要素のスペックではなく、アルゴリズムのコンパイルに伴うオーバーヘッドや誤り耐性処理を含めたシステム全体の実効能力を評価する。
ミラー回路による古典検証限界の回避
従来の代表的な性能指標である「量子ボリューム(Quantum Volume)」では、実行結果の成否を判定するために古典スーパーコンピューターで同一回路のシミュレーションを実行する必要があった。この手法は量子ビット数や回路の深さが増加すると計算量が指数関数的に爆発するため、50量子ビットを超える領域で評価そのものが破綻するという構造的限界を抱えていた。
QUOPSはこの問題を「ミラー回路(Mirror Circuits)」の採用によって解決している。ミラー回路では、順方向に実行したランダム演算回路の直後に逆向きの逆演算回路を配置し、パウリ演算子によるランダム化を加える。理想的なハードウェアであれば初期状態(例えば全量子ビットが|0⟩の状態)に戻る設計となっており、古典計算機による厳密な状態シミュレーションを行わずとも、出力が初期状態からどの程度崩れたかを統計的に計測できる。
QUOPSにおける標準的な合格条件は、理想的な回路出力の維持度合いを示す「平均プロセス偏極(Mean Process Polarization)」が約61%以上であることを、95%の信頼水準で実測できることと規定されている。
スコア算出ルールと演算量の重み付け
QUOPSでは、アルゴリズムの規模を公平に比較するため、演算ごとに標準化された重み付けを採用している。
- 1量子ビットの任意角回転ゲート:演算量「1」
- 2量子ビットCNOTゲート:演算量「2」
各ハードウェア固有のネイティブ命令へのトランスパイル(変換)に伴うゲート数の増加も、この共通単位を通じてスコアに直接反映される。
総合スコアの算出にあたっては、使用する量子ビット数を表す回路幅を$w$、総演算量を表す回路規模を$s$としたとき、以下の不等式を満たす範囲内で正常動作した最大の$s$を特定する。
$$w^2 \le s \le w^3$$
極端に細長い回路($s > w^3$)や浅すぎる回路($s < w^2$)を評価から除外することで、将来の実用アルゴリズムに近いアスペクト比を持つ計算領域に焦点を絞る。さらに、1秒間に処理可能な実効演算量(QUOPS/s)を併せて計測し、「扱える計算の大きさ」と「処理のスループット」を独立した軸として可視化する。
従来指標との比較
従来の評価軸とQUOPSの差異は以下の通りである。
| 評価指標 | 測定対象 | 古典検証の負荷 | 測定の限界 |
|---|---|---|---|
| 物理量子ビット数 | 集積された素子の物理的な総数 | なし | エラー率や配線結合度が無視される |
| 量子ボリューム(QV) | 正方形回路(幅=深さ)の忠実度 | 量子ビット数に応じ指数関数的に増大 | 50〜100量子ビット以上で検証不能 |
| CLOPS | 単位時間あたりの回路層実行速度 | なし(速度のみ測定) | 回路の品質や誤り率は評価に反映されない |
| QUOPS | 回路規模(幅・深さ)と実効処理速度 | ミラー回路により多ビットでも低負荷 | 評価回路の構成に依存(将来の更新前提) |
参考記事: 量子優位性とは?量子超越性・ユーティリティとの違いと2030年までの導入ロードマップ
評価指標が転換した背景と主要4機種のベンチマーク結果
量子コンピューティングの研究開発は長らく、搭載された物理量子ビット数の多寡を競う段階にあった。しかし、物理量子ビットを増やしてもエラーの蓄積によって実用的な深さの回路が実行できない課題が顕在化し、ハードウェアの真の計算能力を測定する標準規格が求められていた。
評価技術の進展経緯
サンディア国立研究所のTimothy Proctor氏らは、2021年12月に『Nature Physics』誌上でミラー回路を用いたエラー特性評価技術を発表した。その後、米国エネルギー省(DOE)国家核安全保障局(NNSA)の支援のもとで手法を実用ベンチマークへと拡張し、2026年9月10日にQUOPSのプレプリント(arXiv:2609.12146)を公表した。
さらに2026年9月14日、NVIDIAは「IEEE Quantum Week」に合わせて「CUDA-Q Logical」を発表し、サンディア国立研究所が策定したQUOPSのリファレンス実装をオープンソースの量子開発環境「CUDA-Q」および「pyGSTi」へ統合することを明らかにした。これにより、研究機関やハードウェア開発企業が共通のコードベースでQUOPSスコアを検証・追従できるインフラが整った。
主要4機種の実測データ
論文内で公開された、Google、IBM、Quantinuumの代表的ハードウェア4機種に対する物理量子ビット直接実行(誤り試行の除外なし)のベンチマーク結果は下表の通りである。
| 機種名 | 方式 | QUOPSスコア | 実効処理量(QUOPS/s) | スコア達成時の回路幅 |
|---|---|---|---|---|
| Google Willow | 超伝導 | 216 | 20,000,000 | 6 |
| IBM ibm_boston | 超伝導 | 204 | 310,000 | 6 |
| Quantinuum H2-1 | イオントラップ | 1,320 | 353 | 12 |
| Quantinuum Helios-1 | イオントラップ | 1,504 | 303 | 16 |
※数値は2026年9月公開論文(arXiv:2609.12146)の表Iに基づく。搭載総量子ビット数(Willowは105、Helios-1は98など)ではなく、不等式を満たして完遂できた回路の幅である。
アーキテクチャ特性の二極化
ベンチマーク結果は、ハードウェアの基本方式に起因する明確なトレードオフを浮き彫りにした。
超伝導方式を採用するGoogle Willowは、20,000,000 QUOPS/sという圧倒的な実行速度を記録した。超伝導量子ビットはマイクロ波パルスによるゲート操作がナノ秒単位で完了するため、短時間で大量のショット(反復試行)をこなす能力に優れる。しかし、隣接する量子ビット間にしか結合がない2次元格子構造をとるため、離れた量子ビット間での演算にはSWAPゲートの多段挿入が必要となり、回路規模が拡大するとエラーが急増して合格基準を維持できなくなる。結果として、最大スコアは幅6の小規模領域(216 QUOPS)にとどまった。
対照的に、イオントラップ方式のQuantinuum Helios-1は、最大回路規模で1,504 QUOPSを達成した。イオンをシャトル移動させて任意ペア間で相互作用を起こす「全結合性(All-to-all connectivity)」と高いゲート忠実度により、幅16・規模1,504という深層回路を破綻させずに実行できる。一方で、イオンの機械的移動やレーザー照射にマイクロ秒〜ミリ秒単位の時間を要するため、実効処理量は303 QUOPS/sと、超伝導型に比べて約5桁低い値を示している。
参考記事: 超伝導量子ビットの基礎と最新動向|CTO・投資家が知るべき産業インパクトと将来予測
実用アプリケーションの要求仕様と約5桁の性能ギャップ
QUOPSの最大の価値は、実機が到達したスコアと、産業界が期待する実用問題の解法に必要な計算リソースを、同一の尺度上で比較可能にした点にある。
代表的ユースケースのQUOPS換算
論文内では、量子コンピューターの実用化マイルストーンとされる2つのキラーアプリケーションについて、必要となるリソースをQUOPS値へと換算している。
| アルゴリズム目標 | 論理データ量子ビット数 | QUOPS換算規模 | 許容期間内の目標速度 |
|---|---|---|---|
| RSA-2048の素因数分解 | 1,399 | 2.5億 QUOPS | 約5,700 QUOPS/s(12時間×9.2回実行) |
| FeMoco分子エネルギー計算 | 1,459 | 3.4億 QUOPS | 約800 QUOPS/s(5日以内完遂を想定) |
※Craig Gidney氏(2025年)およびGuang Hao Low氏らのフォールトトレラントリソース見積もりを基に、Tゲート実装コスト等を共通換算した値。
RSA-2048暗号の解読には2.5億QUOPS、肥料製造の省エネルギー化に資するニトロゲナーゼ酵素の活性中心「FeMoco(鉄・モリブデン錯体)」の電子状態エネルギー計算には3.4億QUOPSが要求される。
現行の物理マシンで最高値を記録したHelios-1の1,504 QUOPSと比較すると、RSA解読には約17万倍、FeMoco計算には約23万倍の回路規模が必要となる。これが、研究チームの指摘する「実用化への約5桁のギャップ」である。
産業界への直接的影響
この定量化は、量子技術の導入を検討する企業やセキュリティ業界のロードマップに明確な指針を与える。
1. 暗号・情報セキュリティ産業
RSA-2048の解読に必要な回路幅(1,399論理量子ビット)と規模(2.5億QUOPS)が示されたことで、現行機(幅16、1,504 QUOPS)からの物理的・工学的隔たりが明らかとなった。耐量子計算機暗号(PQC)への移行は必須のセキュリティ要件であるものの、短期間で既存の公開鍵暗号が突破されるリスクは技術的に低く、過度な危機感に惑わされずに計画的なPQC移行スケジュールを組むことが可能になる。
2. 材料開発・化学産業
創薬や触媒開発における量子化学計算では、3億QUOPS超の深い回路を数日間にわたってエラーなしに連続実行し続けるハードウェア安定性が前提となる。古典シミュレーションの近似計算(DFT等)とハイブリッドで運用するにしても、現行の物理量子ビットマシン単体での商用化学計算は不可能であり、論理量子ビットの大規模集積を待つ必要がある。
3. 企業のPoC選定基準の変化
これまで企業は「自社の課題を解くために何量子ビットのマシンが必要か」という曖昧な基準でクラウド環境を選定していた。QUOPSの導入により、「解きたい問題の量子回路をコンパイルした結果、要求される幅$w$と規模$s$が対象マシンの実行可能領域($w^2 \le s \le w^3$)に入っているか」を事前検証し、実行不能なPoCへの無駄な予算投下を抑止できるようになる。
参考記事: 量子クラウドサービスの選定基準と導入ロードマップ|主要プラットフォーム比較からセキュリティ、国内環境まで徹底解説
2030年に向けた技術的課題とFTQC移行のマイルストーン
実用領域までの約5桁の差を埋めるにあたり、現在のNISQ(ノイズあり中規模量子)技術の延長線上での対応には限界がある。
誤り緩和(Error Mitigation)が抱える速度の壁
量子誤り訂正を用いずに、統計的サンプリングによってノイズの影響を相殺する「誤り緩和」を適用した場合の検証データも報告されている。
Helios-1において、プロセス偏極の合格しきい値を通常の61%から1%まで引き下げ、誤り緩和を想定した外挿推定を行ったところ、実行可能な回路規模は1,504 QUOPSから20,442 QUOPSへと約13.6倍に拡大した。しかしその代償として、必要な試行回数が偏極値$\alpha$の逆二乗($1/\alpha^2$)に比例して爆発し、実効処理量は303 QUOPS/sから0.29 QUOPS/sへと約1,045分の1に激減した。
回路規模を拡大できても、計算完了までに非現実的な時間を要することになり、誤り緩和技術だけで数億QUOPSの実用目標に到達することは物理的に不可能であることが確認された。
誤り耐性量子計算(FTQC)と論理量子ビットの実装
根本的な解決策となるのが、複数の物理量子ビットを用いてノイズ耐性を持つ仮想的な量子ビットを構成する「誤り耐性量子計算(FTQC: Fault-Tolerant Quantum Computing)」である。
論文では、Quantinuum Helios-1上で7個の物理量子ビットから1個の論理量子ビットを作る「[[7,1,3]] Steane符号」を用い、最大8個の論理量子ビットプロセッサを構築してQUOPSを測定した実験結果も示されている。
- 初期測定値:回路幅4において 24 QUOPS / 1.3 QUOPS/s
- 改良後測定値:回路幅4において 40 QUOPS / 4.9 QUOPS/s
物理量子ビット直接実行の1,504 QUOPSと比較するとスコア自体は低下しているが、これは初期的な小規模実験構成によるものである。重要な点は、誤り訂正に必要なシンドローム測定や補助状態の品質改善、演算の並列化といった工学的な最適化を行うことで、論理演算スコアが24から40へ、処理速度が1.3から4.9 QUOPS/sへと向上したプロセスがQUOPSによって客観的にトラッキングできた点にある。
2030年に向けた技術ロードマップ
実用計算に向けた今後数年間の進展は、以下の段階を経て進むと見込まれる。
【現状:物理量子ビット検証】
・QUOPS規模: 10²〜10³ QUOPS
・方式の二極化: 超伝導の超高速性 vs イオントラップの回路深度
↓
【2026〜2028年:論理量子ビット集積とデコード高速化】
・論理量子ビット数: 10〜100論理量子ビット
・QUOPS規模: 10⁴〜10⁵ QUOPS
・課題: 実時間での誤り訂正デコード処理(レイテンシ短縮)
↓
【2029〜2030年:初期FTQCユーティリティ】
・論理量子ビット数: 100〜1,000論理量子ビット
・QUOPS規模: 10⁶〜10⁷ QUOPS
・目標: 小規模な量子化学計算・特定最適化問題での実証
参考記事: トラップドイオン量子コンピュータの実用化時期は?60論理ビットが切り拓くFTQCロードマップと技術的課題
企業が取るべき実装評価とベンチマーク運用の視点
QUOPSの登場は、量子ハードウェアの評価軸を「物理量子ビット数の誇示」から「実効演算能力の検証」へと変化させた。技術導入や投資判断を行う実務者は、単一のスコア値のみに依存せず、以下の観点に基づいたシステム評価を進める必要がある。
- 回路幅と深さのアスペクト比の確認
公開されたQUOPSスコアが自社の解きたいアルゴリズムの回路幅(使用量子ビット数)と深さに合致しているかを精査する。最大スコアが高くても、それが狭い回路幅でのみ達成されたものであれば、多量子ビットを並列に使うアルゴリズムは動作しない。
- 実効スループット(QUOPS/s)の測定条件の精査
超伝導方式の数千万QUOPS/sとイオントラップ方式の数百QUOPS/sでは、適したユースケースが根本から異なる。高速性を活かして大量のサンプリングを回すタスクなのか、深い回路を1回確実に通すタスクなのかに応じてハードウェア方式を選定する。また、ベンダーが提示する処理速度にジョブのキュー待ち時間やデータ転送時間が含まれているかを確認する。
- 誤り訂正オーバーヘッドの定量的追跡
NISQからFTQCへの過渡期において、論理量子ビットの導入が純粋な計算能力の向上に寄与しているかをQUOPSの推移で検証する。CUDA-Qなどの共通フレームワークを活用し、自社で構築したアルゴリズム回路が各社ハードウェア上で描く「実行可能領域」を第三者検証可能な形で継続監視する体制を整えることが推奨される。
出典: XenoSpectrum
出典: arXiv
出典: NVIDIA Investor News
出典: Sandia National Laboratories
