慶應義塾大学などの産学共同研究チームは、外界とエネルギーや粒子をやり取りする「開放量子系」を少ない計算資源で高精度に再現する量子アルゴリズムを開発しました。補助量子ビット数を最少7個に抑えつつ、計算精度を高めた際の量子ゲート数の増加を対数関数的に抑制することに成功しています。
産学連携による開放量子系シミュレーション技術の開発経緯
外界からの熱やノイズの影響を排除した「孤立量子系」と異なり、現実の物質や化学反応の多くは環境と相互作用する「開放量子系」として振る舞います。開放量子系の解析は、触媒反応の解明や超伝導材料の探索などに不可欠です。しかし、環境との自由度を含めた状態空間の指数関数的な増大により、スーパーコンピューターを用いた古典計算では厳密な追従が困難でした。
従来の量子アルゴリズムでも、環境への散逸(エネルギーや粒子の流出)を量子回路上に再現するには大量の補助量子ビットや深いゲート段数が必要でした。その結果、ノイズの影響を受けやすく、実機実装のハードルとなっていました。
慶應義塾大学量子コンピューティングセンター長の山本直樹教授を中心とする研究グループは、この課題を解決するアルゴリズムを考案しました。本研究は慶應義塾大学、三菱UFJ銀行、トヨタ自動車による産学連携の成果です。研究の時系列および関与組織の概要は以下の通りです。
| 年月 | 出来事 | 主な内容・関与機関 |
|---|---|---|
| 2024年12月27日 | プレプリント公開 | 研究チームが学術リポジトリ「arXiv」にて基本理論の論文を公開 |
| 2026年9月4日 | 国際学術誌への採録 | 米国物理学会(APS)の専門誌『PRX Quantum』オンライン版に論文掲載 |
| 2026年9月14日 | 成果の公式発表 | 慶應義塾大学よりプレスリリースを公表(三菱UFJ銀行、トヨタ自動車との共同研究) |
研究グループには、慶應義塾大学の教員・大学院生に加え、株式会社三菱UFJ銀行所属の加藤準平氏、トヨタ自動車株式会社所属の伊藤康介氏らが参画しました。産業界の計算ニーズを背景に、実用的なリソース制約下で動作するアルゴリズムの設計が進められました。
参考記事: 量子コンピュータとは?仕組みからビジネス活用・2030年実用化シナリオまで徹底解説
ランダム量子回路による散逸再現と対数スケーリングの工学的価値
本技術の核心は、環境との相互作用に伴う散逸過程を、ランダム化された量子回路(Randomized Dissipation)を用いて模擬した点にあります。
既存手法が抱えていた補助量子ビットと回路深さのトレードオフ
開放量子系の時間発展は、一般に「リンドブラッド(Lindblad)方程式」によって記述されます。これを量子コンピューター上で解く標準的なアプローチでは、系本体を表現する量子ビット群のほかに、散逸演算子(ジャンプ演算子)を作用させるための大量の補助量子ビットを用意する必要がありました。
また、シミュレーション誤差を $\epsilon$ 以下に抑えようとすると、従来のユニタリ埋め込みや積公式(Trotter展開など)に基づく手法では、必要な回路深さ(量子ゲート数)が $(1/\epsilon)$ の多項式スケールで増大します。量子ビットのコヒーレンス時間(重ね合わせ状態を維持できる時間)に限界がある現状のハードウェアでは、精度を高めるほど回路が深くなり、物理エラーによって計算結果が崩壊するというジレンマを抱えていました。
補助量子ビット数の最小化と対数スケーリング
研究チームは、散逸過程を決定論的に回路へ組み込むのではなく、適切な確率分布に基づいてランダムなユニタリ操作と測定を組み合わせる手法を確立しました。
この設計により、補助量子ビットの要求数を大幅に圧縮しました。具体的には、ジャンプ演算子に含まれる最大パウリ文字列数を $M$ としたとき、必要な補助量子ビット数を $4 + \lceil \log_2 M \rceil$ 個、あるいは特定の条件下で最少7個にまで抑え込んでいます。物理系のサイズが大きくなっても、シミュレーションに必要な作業用ビットがほぼ固定される設計です。
さらに、目標誤差 $\epsilon$ に対するゲート数の増加率を、多項式スケールから対数スケール($\mathcal{O}(\mathrm{poly}(\log(1/\epsilon)))$)へ抑えることに成功しました。誤差を1桁小さくしてもゲート数はわずかに増えるだけであり、高精度な解析を浅い回路で実行できます。
| 比較項目 | 従来アルゴリズムの標準値 | 本研究で開発された手法 |
|---|---|---|
| 補助量子ビット数 | 演算子数や系サイズに比例して増大 | $4 + \lceil \log_2 M \rceil$ 個(最少7個で固定可能) |
| 誤差 $\epsilon$ に対する回路深さ | $(1/\epsilon)$ に依存して多項式的に増大 | $\log(1/\epsilon)$ に比例(対数的増加に抑制) |
| 想定ターゲットハードウェア | 完全なFTQC(数百万物理ビット級) | early FTQC(初期誤り耐性機・数千物理ビット級) |
二体粒子損失モデルへの適用検証
論文中では、物性物理や材料工学の標準的ベンチマークである「二体粒子損失を伴うフェルミ・ハバード模型」や「境界駆動された散逸スピン系」への適用性が示されています。粒子が系外へと失われていく非平衡状態のダイナミクスを、現実に即したリソース制約の範囲内で高精度に計算できることが理論的に証明されました。
参考記事: 量子シミュレータとは?仕組みからQulacsでの開発、スパコン連携の最新動向まで解説
各産業プレイヤーに与える影響
本手法による計算資源の大幅な削減は、ハードウェア開発企業、エンドユーザーとなる素材・化学メーカー、物性物理研究機関のそれぞれに具体的な影響を与えます。
量子ハードウェア開発企業
超伝導やイオントラップ、中性原子などの方式を問わず、ゲート型量子コンピューターを開発するベンダーにとって、本成果は実用アプリケーションの提示時期を早める要因となります。
これまでは、非自明な量子多体シミュレーションを実行するために数万〜数百万個の物理量子ビットを要するFTQC(誤り耐性量子計算)環境が前提とされてきました。しかし、補助量子ビット数が1桁で済み、ゲート数が対数スケールに収まる本アルゴリズムであれば、初期の誤り訂正コードを適用した「early FTQC(初期誤り耐性機)」の段階で実行可能です。ハードウェアベンダーは、ハード側の物理ビット数拡大だけに頼らず、アルゴリズムと協調した初期の実用ユースケースを提案しやすくなります。
素材・化学・電池メーカー
トヨタ自動車が共同研究に参画している点からも示される通り、本手法は材料開発の基幹領域に直結します。
固体酸化物形燃料電池(SOFC)の電極界面反応や、光触媒による水分解、リチウムイオン電池の電解液劣化プロセスなどは、いずれも電子や分子が系外と出入りする開放量子系です。これまでは古典近似計算に依存しており、実験値との乖離が探索のボトルネックとなっていました。本手法の登場により、初期の量子実機を用いた正確な反応経路探索パイプラインの構築時期が現実的な射程に入ります。
学術研究機関
凝縮系物理学におけるトポロジカル相転移や、非平衡散逸系特有の量子相転移の解明が進みます。散逸をノイズとして排除するのではなく、散逸そのものをエンジニアリングして新たな量子状態を作り出す「散逸的状態準備」の計算基盤としても機能します。
参考記事: 量子優位性とは?量子超越性・ユーティリティとの違いと2030年までの導入ロードマップ
実用化検証へ向けた開発ロードマップと評価指標
本技術の登場により、材料科学における量子優位性の実証時期は、従来の想定よりも1〜2年前倒しされる公算が高まりました。
完全なFTQC機の完成を待つことなく、論理量子ビット数が数十〜数百個規模の初期実用機で現実的な開放系の解析が可能になります。素材開発や計算科学の責任者が、自社のロードマップへ本手法を組み込むかを判断するにあたっては、以下の定量基準を監視する必要があります。
技術責任者が注視すべき3つの判定指標
- 実機検証におけるパウリサンプリングのオーバーヘッド
本手法はランダム量子回路を用いるため、計算結果の分散を抑えるために一定回数の測定(ショット数)が必要です。実機のクロックスピードに対し、サンプリング時間が古典シミュレーションの許容範囲内に収まっているかを評価指標とします。
- 物理エラー率と論理ゲート忠実度の閾値
回路深さが対数スケールに抑制されたとはいえ、ジャンプ演算子を適用する複数量子ビットゲートの忠実度が要求されます。2量子ビットゲートエラー率が $10^{-3}$ を下回り、初期的な符号化(表面符号など)で物理エラーを隠蔽できる水準に達しているかが導入判断の分岐点です。
- 標的分子・材料の有効ハミルトニアンサイズ
フェルミ・ハバード模型の検証から一歩進み、実際の触媒分子(鉄硫黄クラスター等)の縮約ハミルトニアンにおいて、補助ビット数 $4 + \lceil \log_2 M \rceil$ の $M$ が回路の許容コヒーレンス内に収まるかを検証することが前提条件となります。
参考記事: 量子クラウドサービスの選定基準と導入ロードマップ|主要プラットフォーム比較からセキュリティ、国内環境まで徹底解説
今後の対応ステップ
材料・化学分野の研究開発部門や量子技術の導入を進める担当者は、本手法の公開に伴い以下の具体的なアクションを取ることが推奨されます。
- 自社材料課題のハミルトニアンマッピング
解析対象としている界面反応や散逸現象について、開放系リンドブラッド方程式におけるジャンプ演算子のパウリ項数 $M$ を同定し、必要となる論理ビット数を試算します。
- 古典テンソルネットワーク法との計算コスト比較
現在のHPCで実行しているテンソルネットワーク法や量子モンテカルロ法による近似精度と、本アルゴリズムをearly FTQCで実行した際の理論精度を、誤差 $\epsilon$ を基準に比較検証します。
- クラウド経由での小規模トイモデル検証
arXivに公開されたアルゴリズムの定式化を基に、QiskitやQulacsなどのシミュレータ上で数ビット規模の散逸モデルを構築し、ランダム化手法によるサンプリング分散と収束挙動の挙動データを収集します。
出典: 日本経済新聞(日経テックフォーサイト)
出典: arXiv
出典: 慶應義塾大学 プレスリリース
