米国国立標準技術研究所(NIST: National Institute of Standards and Technology)などの共同研究チームは、既存の地上光ファイバー網を活用し、62kmの距離で毎秒1,500個の量子もつれ光子を伝送する実証に成功しました。東日本電信電話(NTT東日本)をはじめとする国内通信キャリアが保有する既存の光ファイバー網を、専用線の新規敷設なしに量子セキュアネットワークへ転用できる物理的根拠が示されました。
米NISTとQunnectが実証した62km商用架空ファイバー伝送の全容
2026年8月5日、NIST、メリーランド大学(UMD: University of Maryland)カレッジパーク校、および量子ネットワーク新興企業の米クネクト(Qunnect)による研究チームは、既存の商用光ファイバーインフラ上で量子もつれ光子対を伝送する実験結果を学術誌『Journal of Optical Communications and Networking(JOCN)』に発表しました。
本実験の特筆すべき点は、地下埋設管ではなく、全体の約70%が電柱に架設された「架空光ファイバー(aerial fiber)」を使用して行われた点にあります。架空ファイバーは日射による急激な温度変化や風、車両の通過に伴う振動、鳥の飛来といった環境外乱を直接受けます。NISTの物理学者であるオリバー・スラッテリー(Oliver Slattery)氏が「考え得る限り最悪の接続環境(It’s about as bad a connection as you can possibly have)」と評した過酷な通信路において、量子ネットワークの連続稼働を実証しました。
2024年にNISTとQunnectが締結した共同研究開発協定(CRADA: Cooperative Research and Development Agreement)を基盤とする本実験は、ワシントンD.C.近郊の量子ネットワークテストベッド構想「DC-QNet」の一環として実施されました。米国防高等研究計画局(DARPA: Defense Advanced Research Projects Agency)も2026年8月13日にQunnectの偏光補償モジュール開発への資金拠出を発表しており、連邦政府主導で実用インフラへの実装が加速しています。
| 実装パラメータ | 本実証の達成値 | 従来の一般的な地上実験 |
|---|---|---|
| 通信経路 | 既存商用架空ファイバー(約70%架空) | 専用の地下埋設ファイバー |
| 伝送距離 | 62km(38.5マイル) | 数km〜数十km(制御環境下) |
| 伝送速度 | 毎秒1,500個(量子もつれ光子対) | 条件により数十〜数百個 |
| 稼働安定性 | 24時間中92.8%で量子もつれ維持 | 外乱時に接続遮断・手動調整 |
| CHSHベルパラメータ $S$ | $2.45 \pm 0.08$(古典限界値2を超過) | 2.0付近(実環境ノイズで低下) |
参考記事: 量子インターネットとは?次世代通信の仕組みと2040年を見据えた覇権争い
Qunnectのリアルタイム自動偏光補償が解決した物理層の課題
光ファイバー中を伝送される光子の偏光状態は、光ファイバーに加わる微小な曲げやねじれ、温度変化による複屈折の変動によって絶えず回転します。この偏光揺らぎは、光子対間の量子もつれ状態を崩壊させる主要因となります。従来の長距離伝送実験は、外乱が遮断された地下深くの埋設ファイバーに依存するか、頻繁なキャリブレーションによる通信停止を余儀なくされていました。
本実証では、Qunnectが開発したリアルタイム自動偏光補償(APC: Automated Polarization Compensation)技術を採用しました。システムはパイロット信号を用いてファイバー内の偏光ドリフトを常時監視し、ミリ秒単位で位相および偏光状態を能動的に補正します。
筆頭著者であるNISTの物理学者イーチェン・シー(Yicheng Shi)氏が「量子ネットワーキングシステムのストレステスト」と表現した過酷な環境下において、24時間の連続試験中、自動補正が能動介入したのは稼働時間の7.2%でした。残る92.8%の期間において量子もつれ状態の自律維持に成功しています。
得られたCHSHベル不等式の測定値 $S = 2.45 \pm 0.08$ は、古典物理学の上限である2を統計的有意差をもって超えており、実環境下でも量子もつれが堅牢に保持されたことを示しています。これにより、専用の暗渠(あんきょ)や新規光ファイバー網を敷設することなく、既存通信網の物理層へ外付けモジュールをアドオンする運用モデルが成立することが確認されました。
参考記事: ブルックヘブン国立研究所とストーニーブルック大学のFSO量子リンク実証|都市型量子通信の仕組みと実装課題
日本の通信インフラ転用と耐量子セキュリティ戦略への波及
本実証のデータは、日本国内の通信キャリアおよび重要インフラ事業者の技術選定に直接的な示唆を与えます。日本では電柱を介した架空配線が都市部・郊外を問わず高密度に存在しており、地上外乱による偏光ドリフトへの耐性確保は量子ネットワーク展開の必須条件でした。
既存ダークファイバー資産の再評価とQKD・PQCハイブリッド運用
NTT、KDDI、ソフトバンクなどの国内通信事業者が保有する広大なダークファイバー網について、架空区間を含めた量子セキュアネットワークへの転用可能性が現実的になりました。新規配線工事が不要となれば、都市間リンクの展開コストは大幅に低減されます。
暗号セキュリティの領域では、米国立標準技術研究所が策定を進める耐量子計算機暗号(PQC: Post-Quantum Cryptography)へのソフトウェア層移行と並行して、物理層での量子鍵配送(QKD: Quantum Key Distribution)を既存設備に組み込むハイブリッド運用の検証が現実味を帯びてきます。金融データや医療情報、政府通信などの高機密データ伝送において、通信キャリアが既存回線のアドオン型高セキュリティサービスとして商用化を検討できる段階に入りました。
分散型量子コンピューティングの接続アーキテクチャ
単一プロセッサの量子ビット集積には冷却能力やクロストークなどの物理的限界が存在するため、光リンクを介して複数の量子プロセッサを接続する分散量子計算が注目されています。62kmの距離で量子もつれ光子が毎秒1,500個伝送できたという数値は、同一データセンター内だけでなく、近郊都市のデータセンター間を量子接続するメトロポリタン・エリア・ネットワーク(MAN)の実現可能性を裏付けています。理化学研究所などが進める量子コンピュータの社会実装においても、拠点間インターコネクト設計の前提条件を塗り替えるデータとなります。
参考記事: 量子鍵配送(QKD)とは?究極の暗号技術の仕組みと2030年までの実装シナリオ
技術責任者が着手すべき実務要件
本実証により、量子通信ネットワークのボトルネックは「専用媒体の敷設」から「端末機器と補償装置の統合」へと移行しました。技術責任者および事業開発部門は、以下の技術検証に着手する必要があります。
- 自社保有・利用回線の架空区間比率と偏光ドリフト特性の測定
既存の商用光ファイバー回線において、日内変動(気温差)や風雨、交通振動による偏光解消のサンプリングデータを収集し、リアルタイム偏光補償装置の追従許容範囲に収まるかを確認する。
- 通信物理層とPQC/QKDハイブリッドアーキテクチャの仕様策定
PQCアルゴリズムへの移行計画を進めつつ、ミッションクリティカルな拠点間通信にQKD機器をプラグイン接続できるシステム構成の互換性を評価する。
- 分散量子インターコネクトを見据えたネットワーク要件の再定義
将来的な量子プロセッサ間通信を見据え、毎秒千個規模のもつれ光子伝送レートから導かれるスループット制約と、必要とされる分散処理プロトコルの要件定義を進める。
参考記事: 米大統領令による暗号移行期限が迫る中、「グローバル量子フォーラム」開幕。PQC移行ロードマップと技術責任者が今すぐ…
_hero-1024x572.webp)