2026年10月16日、Anthropic(アンスロピック)はClaude Mythos 5を用いて8種類の量子回路を再設計し、実行リソースの指標であるTQコストを最大39倍削減したと発表しました。2026年7月の先行研究と比較して楕円曲線暗号の加算処理に必要なゲート数を約17分の1に圧縮した事実は、暗号技術検討会(CRYPTREC)のガイドラインに基づく国内金融インフラの耐量子計算機暗号(PQC)移行スケジュールに再検討を迫る根拠となります。
ハーバード大学・QuEraとの共同研究とTQコスト削減の検証結果
Anthropicはハーバード大学(Harvard University)およびQuEra Computing(キューエラ・コンピューティング)と共同で、大規模言語モデル(LLM)が自律的に量子回路を最適化する共同実験を行いました。2026年10月15日にarXivへ提出された論文「Discovering state-of-the-art quantum circuits with large language models」によると、研究チームは平文の自然言語プロンプトのみを手がかりとしてモデルに回路設計を指示しました。
本研究は、米情報高等研究開発活動(IARPA)および米陸軍研究局(ARO)による万能量子計算向けプログラム「ELQ(Entangled Logical Qubits)」、さらに全米科学財団(NSF)のNVQL助成(助成番号: PHY-2410716)の支援を受けて実施されたものです。
ハードウェア開発では、現在の物理量子コンピュータが搭載するqubit(量子ビット)は数百から数千規模にとどまっています。誤り耐性量子計算(FTQC)の実現には物理qubit数とゲート忠実度の向上が不可欠とされてきましたが、今回の実験はソフトウェア側から物理要件を圧縮するアプローチの有効性を実証しました。
モデルの評価には、最も計算負荷の高い論理演算であるToffoliゲート数と、同時稼働するqubitのピーク数を掛け合わせた「TQコスト」が採用されています。検証対象となった8回路における基準設計との比較データは以下の通りです。
| 回路タスク | 分野 | 基準値(Toffoli / qubit) | Claude設計(Toffoli / qubit) | 改善倍率 |
|---|---|---|---|---|
| 固定小数点ガウス関数 | 数値計算 | 24,000 / 362 | 1,583 / 139 | 39倍 |
| HHLアルゴリズム回転角 | 数値計算 | 16,000 / 300 | 1,348 / 115 | 32倍 |
| DQI向けReed-Solomon復号器 | 最適化 | 510万 / 1,938 | 44万 / 1,837 | 12倍 |
| クーロンポテンシャル | 数値計算 | 6,355 / 252 | 1,140 / 142 | 9.9倍 |
| 非可換ゲージ理論シミュレーション | 物理 | 130万 / 1,927 | 17万 / 1,859 | 7.7倍 |
| Fe2S2分子向けAlias-Select | 化学 | 55,000 / 139 | 15,000 / 126 | 4.1倍 |
| DQI向けエルミート復号器 | 最適化 | 1億 / 19万(素朴版) | 93万 / 2,395 | 9,100倍以上 |
| 楕円曲線点の加算(剰余逆元) | 整数論 | 7,000万 / 838(先行研究比) | 400万 / 935 | ゲート17分の1 |
数値計算分野の固定小数点ガウス関数では39倍、線形方程式を解くHHLアルゴリズムの回転角計算では32倍のTQコスト削減を記録しました。また、最適化問題において超多項式の高速化を目指すDQI(復号付き量子干渉法)向けReed-Solomon復号器では、Google Quantum AIの従来構成と比較してゲート数を12倍削減しています。
Googleの試算によれば、最適多項式交差(OPI)問題をスーパーコンピュータ「Frontier」で解いた場合、計算完了までに約3か月を要します。将来のDQI対応量子コンピュータであればこの処理を約1時間で完了できますが、その大半を占めていた復号器のゲート数が12分の1に圧縮された計算になります。
中性原子方式を手がけるQuEraとAnthropicの連携は今回が初ではありません。2026年8月には、Claudeを用いてQuEraの256物理qubitマシン「Aquila」の制御レーザー復旧コードを生成し、復旧時間を数分から最短0.9秒へ短縮した経緯があります。ハードウェア制御の自動化に続き、アルゴリズム設計そのものをLLMが代替する体制が整いつつあります。
参考記事: QuEraの量子レーザー自律復旧とは?Claude生成コードによる99.3%成功とFTQC運用のロードマップ
参考記事: 量子優位性とは?量子超越性・ユーティリティとの違いと2030年までの導入ロードマップ
自律ループ「OpenEvolve」と形式検証言語Leanが導いた3つの設計原則
今回の最適化は、人間のエンジニアによる手動チューニングではなく、LLMを中心とした完全自律ループによって導出されました。システムにはオープンソースの進化的探索フレームワーク「OpenEvolve」と古典シミュレータが組み込まれ、モデルが生成したPythonプログラムを自動検証する環境が構築されました。
Claude Mythos 5は平文の課題定義を受け取った後、候補回路を生成します。古典シミュレータがその動作の正確性を入力ごとに確認し、Toffoliゲート数とqubit数からTQスコアを算出してフィードバックします。人間が介在したのは初期プロンプトの投入と、探索が局所解に陥った際に探索幅を広げるよう指示した数回のみです。
特に困難とされてきた整数論タスクである「素体上の剰余逆元計算(楕円曲線の加算処理)」では、モデルが53時間の自律探索を実施しました。この過程でモデルは3つの設計原則を自ら確立しています。
第一の原則は、条件分岐の複製を排除する「データ経路制御への置き換え」です。量子回路では分岐ごとに演算ブロックを複製するとqubit消費が増大するため、入出力の値を入れ替えて単一ブロックを再利用する構造へ変更しました。
第二の原則は、「選択履歴の保存から状態復元への転換」です。可逆計算を義務付けられる量子回路では、計算ステップの履歴保持がqubitを枯渇させる要因となります。Claudeはレジスタに残る数値から過去の判断を逆算する代数恒等式を新しく証明し、メモリ保持を不要にしました。この証明の妥当性は形式検証言語Leanによって数学的に検証されています。
第三の原則は、「確率的許容誤差を活用した例外系回路の削減」です。DQI向けReed-Solomon復号器では、拡張ユークリッド互除法から固定ステップで動作するBerlekamp-Masseyアルゴリズムへ移行しました。4億300万件のサンプル復号を対象とした高速シミュレーションを行い、最悪ケースでのみ必要となる665個の予備qubitを削り、通常実行に必要な19個のqubitに絞り込みました。1万回に1回生じる失敗率をタスク許容誤差内に収めるトレードオフを採用しています。
この自律設計により、Bitcoin(ビットコイン)などの暗号署名で使われる楕円曲線「secp256k1」のパラメータ($y^2 = x^3 + 7 \pmod{2^{256} – 2^{32} – 977}$)において、2026年7月の先行研究(Luoら)が記録したToffoliゲート数7,000万個を400万個へと大幅に圧縮しました。qubit数は838から935へ12%増加したものの、総ゲート数を約17分の1に削減した回路群を生成しています。
触媒設計の試金石とされる窒素固定酵素の鉄硫黄クラスター「FeMoco」の基底状態エネルギー計算では、2017年時点で約50兆個と試算されたToffoliゲート数が、8年間の人間による研究を経て約3億4,000万個まで削減されてきました。これに対し、楕円曲線の新アーキテクチャはわずか53時間の単一セッションで導出されています。
参考記事: Bitcoinの耐量子移行にAIも新たな論点|Anthropic研究が突きつける「AI-Day」リスクと暗号アジリ…
金融インフラのPQC移行計画と国内量子コンパイラ開発への波及効果
アルゴリズム側の最適化によるゲート数の17分の1圧縮は、耐量子暗号(PQC)への移行スケジュールに構造的な変更を促します。米国立標準技術研究所(NIST)によるPQC標準化やCRYPTRECの暗号移行方針では、ショアのアルゴリズムを実行可能なFTQCの登場時期を2030年代半ばと見積もるシナリオが一般的でした。しかし、要求される回路規模が数分の一から数十分の一に縮小すれば、ハードウェア側に求められる物理qubit数やコヒーレンス時間の達成基準は前倒しされます。
国内の金融機関やインフラ事業者は、現在利用している公開鍵暗号(RSAやECDSA)のリスク評価を修正する必要があります。解読に必要な論理リソースが減少することは、「今暗号化通信を盗聴・保存し、将来の量子計算機で復号する」SNDL(Store Now, Decrypt Later)攻撃の脅威耐用年数が縮小することを意味します。
一方で、今回の研究には客観的に留意すべき前提が存在します。公開された成果はarXivのプレプリントであり、第三者機関による査読や実機上での追試は完了していません。回路の検証は古典シミュレータ上で実施されたものであり、実際の物理量子チップが抱える配線接続性やクロストークノイズの影響下で同様の性能が出るかは未確定です。
また、LLMによる回路合成が機能する条件は明確に限定されています。正当性を検証できる古典評価プログラムが存在し、スコアが数値として一意に定義できるドメインに限られます。量子誤り訂正コード自体の設計やハードウェア制御の最適化など、古典シミュレーションが困難な領域では同様の手法をそのまま適用できません。
日本の量子ソフトウェア産業にとっては、回路コンパイルのパラダイムシフトが生じています。従来のルールベース型量子コンパイラや静的最適化ツールに対し、形式検証系とLLMを接続した進化的探索が性能差を示しました。国内の量子アルゴリズム技術者は、人手による回路記述から、検証器の厳密な定義と探索境界の設計へと開発リソースを再配分する必要があります。
参考記事: 耐量子暗号(PQC)とは?CISOが急ぐべき暗号インベントリと2030年への移行ロードマップ
企業が講じるべき暗号インベントリ監査とアルゴリズム検証体制
実用的な量子計算機の実現要件がソフトウェア主導で引き下げられた状況を受け、企業の技術責任者が着手すべき実務対応を整理します。
- 署名・鍵交換アルゴリズムのインベントリ棚卸しと耐用年数の再評価
自社システム内で利用されている楕円曲線暗号(secp256k1やP-256)の実装箇所を特定します。ハードウェア要件の低下を前提に置き、CRYPTRECが推奨する耐量子暗号方式(ML-KEMやML-DSA)への移行完了目標を再計算します。
- 形式検証を組み込んだアルゴリズム評価基盤の整備
自社で量子アルゴリズムや複雑な可逆回路を開発する場合、古典シミュレータとテストコードによる自動採点パイプラインを構築します。Leanなどの対話型定理証明系を導入し、LLMが提案する代数構造の数学的整合性を自動検証するフローを内製化します。
- ハードウェア物理限界と論理リソース見積もりの分離監視
量子コンピュータの導入判断において、物理qubit数の公表スペック値だけでなく、論理ゲート削減率を掛け合わせた実効実行時間を指標に採用します。ハードウェア開発企業のロードマップ更新と並行して、コンパイル最適化によるリソース低減率を継続監視します。
出典: Anthropic
出典: arXiv
出典: eWeek
出典: Quantum Computing Report
