NEARプロトコル(NEAR Protocol)は2026年7月、資産移動を伴わずに耐量子暗号署名「ML-DSA-65」を追加できるアップグレード「NEP-645」を本番環境へ導入した。暗号資産交換業者やウォレット開発企業にとっても、既存アドレスを維持したまま暗号方式を更新する現実的な実装事例となる。
累計取引高332億ドル突破とNEARプロトコルのPQC実装プロセス
分散型取引所(DEX)分析ツール「DefiLlama」の集計によると、NEARのクロスチェーン基盤「NEARインテンツ(NEAR Intents)」の累計取引高は332.9億ドル(約5.3兆円)を突破した。直近30日間の取引高だけでも47.6億ドル(約7,500億円)を記録し、預かり資産総額(TVL)は約2.23億ドルに達している。
NEARは2026年に入り、暗号学的な安全性を更新するためのプロトコル改修を段階的に進めてきた。2026年5月の構想発表から10月の鍵秘匿化テストネット稼働までの経緯は下表の通りである。
| 年月日 | イベント | 主な内容・仕様 |
|---|---|---|
| 2026年5月6日 | 耐量子移行ロードマップ発表 | 米国NIST規格(FIPS 204)採用を表明 |
| 2026年5月25日 | nearcore PR #15731マージ | ポスト量子署名(PQC)のコード統合 |
| 2026年6月29日 | 技術改善提案「NEP-645」提出 | 任意追加型(オプトイン)署名の仕様策定 |
| 2026年7月9日 | nearcore 2.13.0リリース | 動的リシャーディングとPQCをテストネット導入 |
| 2026年7月20日 | プロトコルバージョン86稼働 | メインネット投票完了に伴う本番運用開始 |
| 2026年9月30日 | トークン発行量削減案の提出 | 最大発行率を年2.5%から1.6%へ低減する提案 |
| 2026年10月10日 | NEP-655テストネット稼働 | 公開鍵を秘匿化する新仕様の検証開始 |
2026年7月20日に有効化されたnearcore 2.13では、シャーディング(分割処理)を自動化する動的リシャーディング機能も組み込まれた。状態サイズが一定のしきい値に達すると、ノード間の協調作業を待たずにシャードが自動分割される仕様である。
Svrn AIのCEO、Sal Ternullo氏は2026年9月30日、経済基盤の安定化に向けた提案を提出した。直近30日間でNEAR Intentsの手数料還元として約190万ドルの買い戻しが実行された一方、同時期の新規発行額は約1,300万ドルに上った。この発行超過によるトークン希薄化を抑制するため、年間の最大発行量を24か月かけて2.5%から1.6%へ引き下げるガバナンス投票が進められている。
しかし、ネットワーク側がPQC署名に対応しても、エンドユーザー側の実運用にはタイムラグが存在する。独立監査機関LayerQuが2026年8月に実施したメインネット調査(698ブロック、3,957件の署名イベント)では、ML-DSA-65を用いたトランザクションは0件であった。署名トラフィックシェアの上限推定値は0.076%以下にとどまっており、実社会でのPQC移行には対応クライアントの普及が前提条件となる事実を示している。
参考記事: 3大陸の銀行・規制当局、量子耐性暗号送金パイロットを開始|ML-DSA-65と2-of-2 MPCが描くウォレットの未来
NEP-645が実現した鍵とアドレスの分離構造
NEARがトークンを移動させずに耐量子署名を導入できた背景には、2018年の設計当初から採用されていた「アカウントIDと公開鍵の分離アーキテクチャ」がある。ビットコイン(Bitcoin)やイーサリアム(Ethereum)などの主要ブロックチェーンとNEARの構造的相違は以下の通りである。
| 項目 | 従来型(Bitcoin / Ethereum) | NEARプロトコル(NEP-645) |
|---|---|---|
| アドレスの導出元 | 単一の暗号キーペア(ECDSA等)から直接生成 | 文字列ベースの独立したアカウントID |
| 署名鍵の登録数 | アドレスごとに1つの秘密鍵のみ紐付け | 1つのアカウントIDに複数の異なる鍵を登録可能 |
| 暗号方式の更新 | 新アドレスを作成し、資産を全額送金して移行 | アカウントIDを維持したまま新方式の鍵を追加 |
| 署名アルゴリズム | secp256k1(ECDSA / Schnorr) | Ed25519、Secp256k1、ML-DSA-65 |
| 移行時のリスク | 送金手数料の発生、未移行残高の恒久的な放置 | オプトイン方式、既存の鍵も並行して維持可能 |
ビットコインやイーサリアムでは、公開鍵ハッシュがそのまま口座アドレスを構成する。量子コンピュータのショアのアルゴリズム(Shor’s algorithm)によってECDSA(楕円曲線DSA)が解読可能になった場合、ユーザーは資産を新しい量子耐性アドレスへ送金しなければならない。休眠状態のアカウントやスマートコントラクト内の資産は移動が難しく、巨額の資産喪失リスクを抱える。
一方、NEARではアカウントID(例: alice.near)がステート(状態)として独立して管理されている。NEP-645では、米国国立標準技術研究所(NIST)の耐量子暗号規格「FIPS 204」に準拠したモジュール格子ベース署名「ML-DSA-65」を、アクセスキーの1つとして追加できるようにした。NEAR CLI(コマンドラインツール)を使用することで、保有トークンやコントラクトの配置アドレスを変更することなく、量子耐性鍵を用いたトランザクション発行へ切り替えられる。
ただし、現在のNEARが完全に量子安全性を確保したわけではない。技術仕様上、以下の前提条件と制約が残されている。
- オプトイン運用の限界: 既存の鍵(Ed25519等)をアカウントから削除しない限り、古い暗号経路からの攻撃リスクは残存する。
- バリデーター鍵の未対応: NEP-645の適用範囲はユーザーアカウントに限定されており、ネットワークの合意形成を担うバリデーター鍵は旧来の暗号方式のままである。
- データサイズの増大: ML-DSA-65の公開鍵長は1,952バイト、署名長は3,309バイトに達する。従来のEd25519(公開鍵32バイト、署名64バイト)と比較して約50倍のデータ容量を消費するため、ネットワーク帯域やストレージコストの増大を招く。
これらの課題に対し、開発チームのNEAR Oneは公開鍵をブロックチェーン上に直接晒さない「NEP-655」のテストネット運用を開始した。さらに、レジャー(Ledger)などのハードウェアウォレット製造企業と連携し、格子暗号の署名演算をセキュアエレメント上で実行するためのドライバ開発を進めている。
参考記事: イーサリアム最新ロードマップの全貌|耐量子暗号とネイティブプライバシーがもたらす構造転換
日本の金融インフラとWeb3事業者が直面する実装課題
NEARのアプローチは、日本の暗号資産交換業者やブロックチェーン開発企業におけるシステム基盤設計に直結する示唆を与えている。
現在、大半のカストディシステムはECDSAやEd25519を前提としたハードウェア・セキュリティ・モジュール(HSM)やマルチパーティ計算(MPC)によって保護されている。
仮に将来の量子解読リスクを理由に暗号方式を全面刷新する場合、顧客ごとに数百万単位で発行された入金アドレスを差し替える作業には膨大な運用コストが発生する。顧客側でのアドレス再登録エラーや、古いアドレスへの誤送金事故が多発する懸念も拭えない。アカウントと署名鍵を切り離す設計(アカウント抽象化)をあらかじめ組み込んでおくことは、この移行摩擦を最小化するための重要な選択肢となる。
一方で、日本国内でML-DSA-65などのポスト量子暗号を導入する際には、ハードウェア層の性能限界という構造的障壁が存在する。
【暗号アルゴリズムの署名サイズ・公開鍵サイズの比較】
■ Ed25519
公開鍵: 32 bytes
署名 : 64 bytes
■ ML-DSA-65(FIPS 204)
公開鍵: 1,952 bytes (約61倍)
署名 : 3,309 bytes (約51倍)
従来のスマートカードや組み込み機器に搭載されているメモリ(RAM/ROM)は、キロバイト単位の鍵展開や多項式演算を想定していない。国内の決済端末や認証ハードウェアでML-DSA-65を直接署名させようとすれば、署名生成時の遅延やメモリ枯渇によるバッファオーバーフローを引き起こす可能性がある。暗号の数学的安全性だけでなく、物理デバイスが署名サイズと演算負荷を処理できるかどうかの検証が不可欠である。
参考記事: 耐量子暗号(PQC)のハードウェア実装ロードマップ|主要半導体ベンダーの対応と移行の技術的課題
暗号アジリティ確保に向けた実務対応
暗号アルゴリズムの更新を「不可逆なシステム移行」ではなく「日常的なパラメータ更新」として扱う設計思想(クリプト・アジリティ:暗号的俊敏性)が、次世代インフラの必須要件になりつつある。技術責任者やインフラ設計者は、以下の実務対応を進める必要がある。
- 暗号インベントリの棚卸しと鍵依存度の特定
自社システムで使用されている署名方式(ECDSA、Ed25519、RSAなど)を洗い出し、アドレス体系と公開鍵がハードコードされている箇所を特定する。特に外部API連携やスマートコントラクトの署名検証ロジックにおいて、署名サイズが可変になることを許容できる設計になっているかを確認する。
- アカウント抽象化アーキテクチャの評価
ERC-4337やNEARのネイティブアカウントモデルのように、鍵ペアとIDを分離できる構造の導入を検討する。鍵ローテーション機能を持つコントラクトウォレットを採用することで、将来的な暗号方式の換装時における資産移転コストとアドレス変更リスクを排除する。
- 格子ベース暗号のパフォーマンステスト実施
ML-DSA-65(FIPS 204)のテストコードを検証環境に組み込み、署名サイズ増大が通信遅延、ストレージ消費、ガス代に与える影響を定量化する。既存のHSMやセキュアエレメントで演算が可能か、専用のアクセラレータが必要かをハードウェアベンダーとともに検証する。
出典: BigGo Finance
出典: LayerQu
出典: Stocktwits
出典: NEAR Protocol GitHub Releases
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