欧州・中東・アジアの2銀行と3規制当局が、耐量子暗号による送金パイロットを始動しました。従来のメッセージング層防御にとどまらず、ブロックチェーンのウォレット層を直接保護します。NIST標準「ML-DSA-65」と2-of-2 MPCを統合し、国境を越えた新基準を検証します。
決済メッセージングからウォレット層へ:ML-DSA-65と2-of-2 MPCが拓く暗号構造の転換
2026年8月24日、Responsible Fintech Institute(RFI)とMPCセキュリティ企業のSafeheronは、欧州・中東・アジアの金融機関および規制当局が参画するポスト量子暗号(PQC)デジタル資産送金パイロットの開始を発表しました。
本実証実験には、ポルトガルのプライベートバンクであるBison BankおよびDK Bankが参加し、規制側のオブザーバーとしてアブダビ・グローバル・マーケット(ADGM)、ブータン・ゲレフ金融サービス局(GFSO)、マルタ金融サービス庁(MFSA)の3機関が名を連ねています。
これまで国際金融における耐量子セキュリティの議論は、SWIFT等の決済ネットワークや通信経路の暗号化が中心でした。国際決済銀行(BIS)イノベーション・ハブがフランス銀行、ドイツ連邦銀行、イタリア銀行、SWIFTらと進めた「Project Leap Phase 2」(2025年12月成果公表)は、主に決済メッセージング層でのPQC適用可能性を実証した先行事例です。
しかし、分散型台帳技術(DLT)やデジタル資産の領域においては、通信経路の秘匿化だけでは資産の保全を担保できません。ブロックチェーンの根幹である「署名生成」と「秘密鍵の保管」を担うウォレット層が脆弱であれば、どれほど強固な通信プロトコルを用いても、公開鍵暗号の破綻とともに資産の保有権が直接奪われるためです。
【従来の暗号構造と本パイロットのアプローチの比較】
従来の金融セキュリティ(通信層・メッセージング層の保護):
[銀行端末] === (PQC/QKD暗号化通信トンネル) ===> [決済ネットワーク(SWIFT等)]
※課題: エンドポイントや分散台帳上の署名鍵(ECDSA)自体は量子の脅威に無防備
本パイロットのアプローチ(ウォレット層・署名鍵の直接保護):
[署名パーティ A (銀行)] \
== (2-of-2 MPC) ==> [ML-DSA-65署名生成] ==> [NEAR量子耐性テストネット]
[署名パーティ B (カストディ)] /
※成果: 単一秘密鍵を存在させず、署名アルゴリズムそのものを耐量子格子暗号へ刷新
今回のパイロットは、米国立標準技術研究所(NIST)が2024年8月にFIPS 204として最終標準化した格子暗号ベースのデジタル署名方式「ML-DSA-65(旧CRYSTALS-Dilithium)」を採用しています。さらに、秘密鍵を単一のエンティティに保持させない「2-of-2 MPC(マルチパーティ計算)」プロトコルを統合し、NEARの隔離された量子耐性テストネット環境上で分散ウォレットの生成とオンチェーン送金トランザクションを検証しています。
既存署名方式(ECDSA/Ed25519)と耐量子署名(ML-DSA-65)の技術比較
ブロックチェーン技術で広く採用されているECDSA(Secp256k1)やEd25519は、離散対数問題や楕円曲線離散対数問題の計算困難性に依存しています。これらは、十分な規模を持つ誤り耐性型汎用量子コンピュータ(CRQC)上でショアのアルゴリズムを実行することにより、多項式時間で解読されることが理論的に証明されています。
対して、ML-DSA-65が依拠する「モジュール学習誤差(Module-LWE)問題」および「Short Integer Solution(SIS)問題」は、量子アルゴリズムを用いても指数関数的な計算量を要する格子問題に基づいています。
| 項目 | 従来方式(ECDSA Secp256k1) | 従来方式(Ed25519) | 本パイロット採用方式(ML-DSA-65 / FIPS 204) |
|---|---|---|---|
| 暗号基盤の理論 | 楕円曲線離散対数問題(ECDLP) | エドワーズ曲線離散対数問題 | モジュール格子暗号(Module-LWE / SIS) |
| 量子耐性(Shorアルゴリズム) | なし(解読可能) | なし(解読可能) | あり(NISTセキュリティレベル3準拠) |
| 公開鍵サイズ | 33バイト(圧縮)/ 65バイト | 32バイト | 1,952バイト |
| 署名サイズ | 約64〜72バイト | 64バイト | 3,309バイト(約3.3KB) |
| 単一秘密鍵の保有リスク | あり(鍵漏洩で即座に資産喪失) | あり(鍵漏洩で即座に資産喪失) | なし(2-of-2 MPCによる秘密分散管理) |
| 主な用途・チェーン | Bitcoin, Ethereum, 既存金融 | Solana, NEAR(現行), Cardano | 本実証テストネット, 次世代Layer1標準 |
関連記事: 耐量子暗号(PQC)とは?CISOが急ぐべき暗号インベントリと2030年への移行ロードマップ
2-of-2 MPCプロトコルによる鍵断片化と署名生成のメカニズム
単にML-DSA-65を単一秘密鍵で運用した場合、鍵の生成時やメモリ展開時に単一障害点(SPOF)が生じます。Safeheronが本パイロットに提供したプロトコルでは、閾値暗号技術であるMPCを適用し、完全な秘密鍵を一度も単一のデバイス上で復元することなく署名を生成します。
秘密計算とは?データを暗号化したまま処理する仕組みと3大方式、導入の選定基準まで徹底解説でも解説されている通り、秘密分散技術はデータを秘匿したまま分散処理を可能にします。本パイロットにおける分散鍵生成(DKG)および閾値署名のプロセスは以下の通りです。
[分散鍵生成 (DKG)]
Party 1 (Bison Bank / DK Bank) Party 2 (Safeheronノード)
| |
|--- 多項式共有・コミットメント交換 --->|
||
||
| |
v v
[合成・リジェクションサンプリング] [合成・リジェクションサンプリング]
\ /
====== 有効な ML-DSA-65 署名 (3.3KB) ======
|
v
[NEARテストネットへのトランザクション送信]
規制当局が主導する2段階の実証フレームワーク
本プロジェクトの特徴は、金融規制当局が設計初期からオブザーバーとして深く関与している点にあります。RFI会長のチア・ホックライ(Chia Hock Lai)氏が「単独の銀行、ベンダー、規制当局がこれを解決できるわけではない」と指摘するように、暗号アルゴリズムの移行は技術仕様の改定だけでなく、国際コンプライアンス基準の再定義を伴います。
プロジェクトは明確に2つのフェーズに分割されています。
- フェーズ1(技術検証): ADGM、GFSO、MFSAがオブザーバーとして監視する中、Bison BankとDK Bankが隔離環境下でML-DSA-65および2-of-2 MPCを用いたウォレット生成、承認フロー、オンチェーン送金をテスト。
- フェーズ2(ガバナンスと規制標準化): 規制当局が「ガバナンス作業部会(Governance Workstream)」に直接参画。国境を越えたPQC運用の監督基準、監査証跡の要件、カストディ基準の策定を実施。
関連記事: 耐量子計算機暗号(PQC)移行のロードマップと技術的課題|G7声明が迫る暗号アジリティへの変革
署名サイズ51倍化とオンチェーン遅延:実用化を阻む3つのボトルネック
PQCとMPCの統合は高いセキュリティを提供する一方で、分散台帳の運用において深刻な技術的トレードオフを発生させます。実用化に向けた最大の障壁は、データサイズ、通信レイテンシ、そして業界全体の準備不足です。
1. ペイロード肥大化によるブロック容量の圧迫とガス代の高騰
従来のECDSA署名が約64バイトであるのに対し、ML-DSA-65の署名サイズは3,309バイトと約51倍に跳ね上がります。公開鍵も33バイトから1,952バイトへと約59倍に拡大します。
ブロックチェーン入門|仕組みからビジネス導入事例、2030年の将来予測まで徹底解説でも示されているように、ブロックチェーンはブロックサイズとブロック生成時間によってスループット(TPS)が制約されます。
- 帯域とストレージの消費: 1ブロックに格納できるトランザクション数が激減し、フルノードの同期コストやステートサイズが爆発的に増加します。
- トランザクション手数料(ガス代): イーサリアムをはじめとする主要チェーンでは、Calldataサイズやストレージ書き込み量に応じてガス代が計算されるため、送金コストが数十倍に跳ね上がるリスクを孕んでいます。
2. MPC通信ラウンドによるレイテンシと耐障害性の課題
2-of-2 MPCプロトコルでは、署名を完了するために地理的に分散したノード間で複数回の暗号化通信(ラウンドトリップ)が必要です。
- ネットワーク遅延: 金融機関が異なるリージョンにノードを配置する場合、パケットの往復遅延が署名生成時間全体のボトルネックとなります。
- リジェクションサンプリングのオーバーヘッド: 格子暗号ベースの署名アルゴリズムは、秘密鍵の微細な情報漏洩を防ぐためにリジェクションサンプリング(条件を満たすまで計算をやり直す処理)を内包しています。MPC環境下でこの反復が発生すると、通信回数が増大し、高頻度取引(HFT)や即時決済を阻害する要因となります。
3. 金融セクターの量子準備度「2.3点」が示す構造的ギャップ
香港金融管理局(HKMA)の調査によると、銀行セクターにおける量子耐性への準備度スコアは10点満点中わずか2.3点にとどまり、調査対象機関の32%が移行計画に未着手であることが判明しています。
米大統領令14412号やG7声明により2030年までの暗号移行が要請されているものの、既存の金融基盤はレガシーシステムとの相互運用性に縛られています。暗号通信の傍受・蓄積を行い、将来の量子コンピュータで復号を試みる「今傍受し、後で復号する(Store Now, Decrypt Later: SNDL)」攻撃の脅威が現実化する中で、ウォレット層の置き換えは最も遅れている領域の一つです。
関連記事: 米大統領令による暗号移行期限が迫る中、「グローバル量子フォーラム」開幕。PQC移行ロードマップと技術責任者が今すぐ…
2026-2027年の検証マイルストーン:技術責任者が監視すべき具体指標
PQCカストディおよび分散型インフラの実装を担う技術責任者は、抽象的な技術トレンドではなく、主要Layer1プロトコルとパイロットの公開マイルストーンをベンチマークとして設定する必要があります。
【Layer1ブロックチェーンおよび業界のPQC実装ロードマップ】
2024年8月: NISTがML-DSA(FIPS 204)等のPQC規格を正式策定(完了)
│
2026年Q2末: NEAR OneによるML-DSA署名サポートのテストネット目標(約2カ月遅れで配置)
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2026年8月: RFI・Safeheron・2銀行・3規制当局が2-of-2 MPC/PQC送金パイロット開始(現在)
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2027年中 : Algorandによる広範な量子耐性(State Proofs/署名層)の導入完了目標
│
2030年 : G7・HKMA・米政府機関が設定するレガシー暗号(RSA/ECC)完全移行期限
技術選定において測定すべき定量的KPI
自社システムの耐量子評価において、次の数値を検証基準とすることを推奨します。
- 署名生成レイテンシ: 2-of-2 MPC構成における署名完了時間が500ミリ秒以内(大陸間通信を含む場合は1,200ミリ秒以内)に収まっているか。
- オンチェーンガス効率: ML-DSA-65署名検証に伴うスマートコントラクトの実行コストが、現行ECDSAの3倍未満に最適化されているか(レイヤー2ロールアップ技術やゼロ知識証明による集約圧縮の適用度)。
- Crypto Agility(暗号アジリティ)の実装度: 将来的なアルゴリズム改定(ML-DSAからSLH-DSAやFalcon派生への切り替え等)が発生した際、ハードフォークや秘密鍵の全再生成を伴わずに署名スキームを更新可能な抽象化アーキテクチャが構築されているか。
秘密鍵モデルの終焉とPQCカストディの義務化
RFIとSafeheronが主導する3大陸パイロットは、耐量子暗号が学術的検証フェーズを終え、国際金融インフラのコンプライアンス要件へと昇華したことを明確に示しています。
「単一の秘密鍵を単一のHSM(ハードウェア・セキュリティ・モジュール)で保管し、ECDSAで署名する」という従来のアーキテクチャは、SNDL脅威の顕在化に伴い、2020年代後半にはガバナンス上の重大な脆弱性と見なされるようになります。
技術責任者および事業責任者が今直ちに着手すべきは、自社が保有・管理する全デジタル資産の暗号インベントリ監査と、MPCを前提とした耐量子署名プロトコルへの適合性評価です。NEAR(2026年Q2末)やAlgorand(2027年)のPQC対応テストネットの動向を注視しつつ、署名サイズ肥大化を吸収するインフラの再設計を進めることが求められます。
出典: BigGo ファイナンス
出典: PR Newswire
出典: Safeheron Blog
出典: FinTech Global