米商務省は2026年9月16日、CHIPSおよび科学法に基づき、IBM傘下の新会社アンデロン(Anderon LLC)へ最大10億ドルの研究開発支援を行う最終契約を締結しました。産業技術総合研究所(産総研)などが主導する国内の量子半導体コンソーシアムにとっても、チップ試作を自前設備から外部受託へ切り替える設計・製造分離の判断を加速させる契機となります。
米政府主導で進む量子受託製造エコシステムの形成
米商務省による今回の最終契約は、2026年5月に交わされた意向表明合意(LOI)を本契約へと移行させたものです。支援額は最大10億ドルに達し、これとは別に親会社であるIBMも同額の10億ドルをアンデロンへ独自に投資します。ただし、政府のR&D支援とIBMによる投資は性質が異なり、単純に合算できるものではありません。
米国の連邦政府は、先端CMOSプロセスだけでなく、量子ハードウェアのサプライチェーン全体を米国内へ囲い込む政策を鮮明にしています。米商務省は2026年9月上旬にも、量子関連スタートアップのリゲッティ・コンピューティング(Rigetti Computing)、ディーウェイブ・クオンタム(D-Wave Quantum)、クアンティニュアム(Quantinuum)の3社に対し、株式取得を条件とする各1億ドル(計3億ドル)の支援を先行して決定しました。今回のアンデロンへの支援は、一連の量子支援策の中で中核インフラを担う位置づけです。
以下の表は、2026年に米商務省が決定した量子分野における主要な支援案件をまとめたものです。
| 対象組織 / 企業 | 支援枠組み | 支援規模 | 主な事業内容・製造領域 |
|---|---|---|---|
| アンデロン(IBM子会社) | CHIPS法 R&D支援契約 | 最大10億ドル | 300mmウエハー専業量子ファウンドリ運営 |
| クアンティニュアム | 株式取得を伴う直接支援 | 1億ドル | イオントラップ型量子ハードウェア開発 |
| ディーウェイブ・クオンタム | 株式取得を伴う直接支援 | 1億ドル | 量子アニーリングおよびゲート型開発 |
| リゲッティ・コンピューティング | 株式取得を伴う直接支援 | 1億ドル | 超伝導量子プロセッサ開発・製造 |
アンデロンが運営する施設は、自社製品のみを製造する従来の垂直統合型ファブではありません。外部のハードウェア開発企業や研究機関から製造を受託する、米国初の大規模な専業量子ファウンドリ(pure-play quantum foundry)を目指しています。IBM以外の顧客にも広くウエハー製造ラインを開放する事業モデルを前提にしており、すでにアルバニー拠点のクリーンルームでは、最初の量子ウエハーが初期製造工程(in-fab)に投入されました。
量子技術市場は2040年までに最大8,500億ドルの経済価値を生み出すと推計されています。しかし、個別のスタートアップが巨額の資金を投じて自前ファブを建設・維持することは資金調達の観点から極めて困難でした。国家プロジェクトとして共通の量産インフラを用意し、参入障壁を引き下げるアプローチが米国で本格的に動き出しています。
参考記事: ノボノルディスク財団が5300㎡量子チップ工場|ファブレス転換の勝機
研究室試作を脱却させる300mmウエハープロセスの技術構造
従来の量子コンピューティング開発では、多くの研究機関や新興企業が200mm以下の小口径ウエハーやチップ単位の試作ラインに依存してきました。研究室レベルのリソグラフィ装置や成膜装置では、基板面内の均一性や欠陥密度の管理に限界が存在します。量子ビットの集積度を数百から数千単位へ引き上げる過程において、歩留まりの低さが最大の物理的ボトルネックとなっていました。
量子ビット歩留まりを左右する微細加工と低温超伝導接合
アンデロンが採用する300mmラインは、先端半導体量産で培われた自動搬送系や精密な統計的プロセス制御(SPC)をそのまま量子デバイス製造に転用します。超伝導量子ビットの性能を決定づける要素は、アルミニウム酸化膜などを挟み込む「ジョセフソン接合」の均一性です。
薄膜の膜厚制御がオングストローム単位で狂うだけで、量子ビットの共振周波数やコヒーレンス時間は設計値から大きく乖離します。既存の先端半導体工場で使われる300mm対応のALD(原子層堆積)や高精度ドライエッチング装置を活用することにより、ウエハー面内における素子パラメータのばらつきを極小化できます。
配線の壁を突破する3次元積層とI/O専用ウエハーの分離
量子プロセッサを大規模化する上でもうひとつの障害となるのが、極低温環境下での配線問題(配線の壁)です。希釈冷凍機の中で量子ビットを制御するためには、チップ1枚あたり膨大な数の同軸ケーブルやマイクロ波配線を接続しなければなりません。
アンデロンの初期製造計画には、量子ビットアレイ本体だけでなく、信号制御や読み出しを担うI/O(入出力)部品専用のウエハー製造が含まれています。超伝導接合を形成するチップと、高密度配線やフィルター回路を組み込むインターポーザ層を別々のウエハーで最適製造し、3次元積層技術で接合するアプローチです。信号損失を嫌う量子回路と、微細配線が要求されるI/O回路を物理的に分離することで、チップ面積あたりの量子ビット密度を大幅に高める設計が可能となります。
以下の表は、従来の研究室試作ラインと300mm専業ファウンドリの主要スペックを対比したものです。
| 製造パラメータ | 従来の研究室レベル試作 | 300mm専業量子ファウンドリ |
|---|---|---|
| 主要基板口径 | 50〜200mm | 300mm標準基板 |
| 搬送・クリーン度 | 手動ハンドリング中心、クラス100〜1000 | 全自動FOUP搬送、クラス1〜10 |
| ジョセフソン接合均一性 | バッチ間・面内で数%以上のばらつき | 統計的プロセス制御により1%未満を追求 |
| 積層アセンブリ | 単層基板またはワイヤボンディング接続 | 多層配線基板との3Dインターポーザ接合 |
| 対象量子アーキテクチャ | 単一方式に特化した専用工程 | 超伝導方式先行、将来他方式へ拡張 |
この製造インフラが立ち上がることで、誤り耐性量子計算(FTQC)の前提条件である物理量子ビットの大量配置が現実的な工学課題へと移行します。アンデロンのムケシュ・カレCEOが述べるように、量子技術は単なる物理現象の発見から、標準化されたプロセスによる実用的なハードウェア実装フェーズへ突入しつつあります。
参考記事: 光量子コンピュータの仕組みと2033年ロードマップ|DARPAがPsiQuantumに1.25億ドルを投じた技術構造
水平分業への構造転換がもたらす産業再編
300mm量子ファウンドリの出現は、量子ハードウェア産業のビジネスモデルを根本から書き換えます。これまでの量子コンピュータ開発は、アルゴリズム開発から冷凍機内のチップ実装、微細加工プロセスまでを一社で抱え込む「垂直統合型(IDM型)」が主流でした。
ファブレス量子スタートアップの台頭
半導体産業が1980年代後半にTSMCの登場によって垂直統合から水平分業へ移行した歴史と同様の現象が、量子産業でも起こり始めます。自前ファブの建設に数百億円規模のエクイティ資金を投じる必要がなくなれば、スタートアップはアーキテクチャ設計や誤り訂正符号の実装、コンパイラ開発に経営資源を集中できます。
チップの設計データをEDAツールで作成し、ファウンドリへテープアウトして製造を委託する「ファブレス・ファウンドリモデル」が量子分野でも成立します。これにより、ハードウェア開発にかかる資本コストが劇的に低下し、多様な量子プロセッサ設計を試すイテレーション速度が上がります。差別化の源泉は「いかにクリーンルームを自前で運用するか」から「いかに効率的な量子回路アーキテクチャを設計するか」へと完全に移流します。
他方式への波及と競合環境の変容
アンデロンは当初、IBMが得意とする超伝導方式の量子ビットアレイから製造を開始しますが、将来的には超伝導以外の量子方式への拡張も計画しています。たとえば、スピン量子ビットを用いるシリコン方式は、先端CMOSプロセスとの親和性が極めて高いアーキテクチャです。
300mmファブの設備が量子用途にカスタマイズされていく過程で、シリコン方式や光量子方式のチップ受託製造が同一ライン上で展開される道が開かれます。単一企業が方式ごとにファブを乱立させる無駄が省かれ、共通の受託製造プラットフォーム上で異なる計算方式が性能を競い合う構造が生まれます。
参考記事: シリコン量子コンピューターの実用化はいつ?日立・インテルのロードマップと技術的課題
日本企業が直面するサプライチェーンの再設計
米国の国家主導による量子ファウンドリ整備は、日本の半導体素材・製造装置メーカーおよび量子ハードウェア開発企業に対して、直接的な事業戦略の再定義を迫ります。
素材・コンポーネント企業における標準化への追従
日本の強みは、超伝導材料、高純度シリコン、希釈冷凍機用配線材料、極低温高周波部品などのサプライチェーン上流にあります。しかし、製造ラインが従来の個別試作から300mm標準ウエハーへと統合されると、部材に要求されるスペックは一変します。
300mm対応の半導体製造装置に適合するウエハー形状や、自動搬送系に対応したキャリア規格、半導体グレードの超高純度ターゲット材の供給が必須条件となります。研究室向けの小ロット多品種供給にとどまっていた国内サプライヤーは、アンデロンのようなグローバルファウンドリが規定するプロセス適合基準を満たさなければ、量産エコシステムから締め出されるリスクを抱えています。
国内ハードウェア開発のファブレス移行判断
理化学研究所や富士通、産業技術総合研究所(産総研)を中心に進められている国内の量子プロセッサ開発においても、製造委託のあり方が問われます。日本国内には産総研の「TIA」などの共用クリーンルーム拠点が整備されているものの、商業量産を見据えた300mm規模の専業量子ラインは存在しません。
国内開発陣が取るべき選択肢は2つに絞られます。ひとつは、自前の試作ラインを特定の研究開発に特化させつつ、実機量産チップの製造はアンデロンなどの海外専業ファウンドリへ委託するファブレスモデルの受容です。もうひとつは、国内の既存半導体ファブ(Rapidusやキオクシア、ルネサスなどの拠点)の遊休ラインや先端ラインを活用し、同等の受託製造インフラを国策として国内に構築する道です。
ただし、後者を選択する場合、米CHIPS法と同等以上の公的資金と、300mmプロセスを量子用途へチューニングする専任エンジニアの確保が不可欠です。中途半端な小規模ファブの延命は、海外ファブレス企業との開発スピード格差を広げる結果になりかねません。
量子サプライチェーン再編への対応策
米商務省によるアンデロンへの支援は、量子コンピュータが「実験室の物理研究」を完全に終え、「半導体産業の量産規律」に組み込まれたことを意味します。この構造変化に対して、国内の技術責任者および事業開発部門は具体的な動きを起こす必要があります。
- 製造委託モデルを組み込んだハードウェア開発ロードマップの策定
自前ファブでの試作に固執せず、設計データ(GDSII等)の標準化を進めることが求められます。300mmファウンドリのPDK(プロセス開発キット)提供を見据え、自社のコア技術をアーキテクチャ設計と誤り訂正アルゴリズムへ再配置する体制を整えなければなりません。
- 300mmプロセス適合材料・極低温コンポーネントの仕様確認
自社の超伝導材料、絶縁材料、高周波コネクタが、300mm自動量産ラインおよび3次元積層プロセスに適合可能かを早期に検証する必要があります。大口径ウエハー全面での膜厚均一性や極低温下でのリーク電流特性データを揃え、海外専業ファウンドリへの材料評価アプローチを開始することが有効です。
- ファブレス型量子スタートアップへの投資およびアライアンス見直し
投資家や事業開発責任者は、投資先企業の資本配分を厳格に見極めるべきです。調達資金の多くを製造設備の減価償却に費やすビジネスモデルは成立しにくくなります。外部ファウンドリを前提とした高密度チップ設計能力と、商用ユースケースに直結するソフトウェアレイヤーを垂直統合したプレイヤーへの資金集中が進むことになります。
出典: 経済ニュース
出典: IBM Newsroom
出典: Evertiq
出典: Morningstar / Dow Jones Newswires
