横浜国立大学の堀切智之教授らの研究グループと同大学発スタートアップのLQUOM株式会社は、量子インターネットの実現に向けた量子中継基盤装置を開発した。光ファイバー網を用いた長距離通信の通信速度を左右する周波数多重度において、世界最高水準となる83多重での接続実証を達成している。
周波数多重度83を実証した量子中継基盤システムの開発経緯
量子コンピューティングの進展に伴い、計算機同士を光ネットワークで直結して超並列処理を行う「量子インターネット」の構想が具体化している。しかし、光ファイバーを用いた量子通信では光子の減衰が発生するため、直接伝送できる距離はおよそ50kmから100km程度に制約されていた。従来の光通信のようにエルビウム添加ファイバ増幅器(EDFA)等で光信号を増幅する手法は、量子力学の基本原理である「量子複製不可能定理(No-Cloning Theorem)」によって量子状態をそのまま複製できないため適用できない。
この伝送距離の壁を打開する中核デバイスが「量子中継器」である。中継地点で光子を一時的に保管する量子メモリと、もつれ状態の光子対を発生させる量子光源を精密に同期させる必要がある。
横浜国立大学とLQUOMの研究チームは、通信波長帯に対応した量子光源と、光コム構造を形成したプラセオジム添加結晶(Pr:YSO)による量子メモリを統合した接続システムを構築した。本成果は、実用的なデータ伝送レートを担保するために必須となる周波数多重化技術において、83チャネルという高多重度を維持しながら安定稼働させた点に技術的特異点がある。
| 開発フェーズ | 達成時期 | 実証内容と主要パラメータ | 開発体制・支援枠組み |
|---|---|---|---|
| スピンオフ設立 | 2020年1月 | 実装に向けたLQUOM株式会社設立 | 横浜国立大学発ベンチャー |
| 2光子長距離伝送 | 2020年8月 | 通信波長帯2光子の光ファイバー伝送 | 英国科学誌Communications Physics掲載 |
| メモリ長距離接続 | 2023年3月 | 10kmファイバー経由の量子メモリ書込・再生 | 総務省・JSTムーンショット目標6 |
| 周波数多重83実証 | 2026年5月 | 世界最高水準となる周波数多重度83の接続 | Applied Physics Letters掲載 |
| 成長資金調達 | 2026年8月 | 1億3,000万円の融資枠開設(商工中金) | NEDOディープテック支援等の併用 |
本研究開発は、内閣府が主導するムーンショット型研究開発事業(目標6「2050年までに、経済・産業・安全保障を大きく転換させる誤り耐性型汎用量子コンピュータを実現」課題番号:JPMJMS226C)や、総務省の委託研究「量子インターネット実現に向けた要素技術の研究開発」などの国家プロジェクトの支援を受けて推進されてきた。
参考記事: 量子インターネットとは?次世代通信の仕組みと2040年を見据えた覇権争い
AFC技術と通信波長量子光源によるボトルネックの突破
既存の単一モード伝送におけるスループットの制約
量子中継における最大の難所は、量子もつれ中継のプロトコルに起因するスループットの極端な低さである。量子中継では、離れたノード間で光子対を発生させ、ベル測定によるエンタングルメント・スワッピングを成立させる。この処理が確率的に成功するまで量子状態をメモリに保持しなければならず、単一チャネル(単一モード)での伝送では通信レートが数Hzから数十Hz程度まで落ち込む。この低レート環境下では、実用的な鍵配送やクラスタ間インターコネクトとして機能しない。
この課題を解決するためには、時間、空間、周波数のいずれかの軸で多重化を行い、並列にエンタングルメント生成を試行するマルチモード量子メモリが不可欠とされていた。
Pr:YSO結晶による原子周波数コム(AFC)の制御
研究グループが採用したのは、イットリウム酸ケイ酸塩(Y2SiO5)結晶に希土類元素プラセオジム(Pr3+)を添加した「Pr:YSO結晶」である。この結晶は極低温環境下で極めて長い光位相緩和時間を持ち、量子メモリ材料として優れた物性を示す。
本システムでは、結晶の不均一広がりを持つ光吸収帯に対し、狭線幅レーザーを用いた光ポンピングを実施した。特定の周波数間隔で周期的な吸収ピーク(原子周波数コム:AFC, Atomic Frequency Comb)を形成している。入射した通信波長帯の光子は、この光コム構造に吸収されることでコヒーレンスを失わずに位相情報が原子集団全体に記録される。一定の遅延時間(光コムの周期の逆数)が経過した後、原子集団の位相が再同期(リフェージング)し、同一の量子状態を持つ光子が外部へ再放出される仕組みである。
【周波数多重型量子中継プロトコル】
[通信波長量子光源] ──(光コム制御 83チャネル並列生成)──┐
│
[Pr:YSO結晶 (AFC量子メモリ)] ←─── 光子保存・コヒーレンス同期 ──┘
│
└── 外部制御パルス照射 ──> [再同期光子の放出] ──> [長距離伝送]
多重度83を成立させた工学的ブレークスルー
今回のブレークスルーは、単に多重度を高めた点だけでなく、高多重度と高い結合効率、低ノイズ性を両立させた点にある。従来の研究では、多重チャネルを増やすと各チャネル間のクロストークや光コム形成時のレーザー散乱光がノイズとなり、量子もつれの忠実度(フィデリティ)が低下していた。
研究チームは、共振器構造を最適化した通信波長帯の自発的パラメトリック下方変換(SPDC)量子光源を新設計した。これによって83の個別周波数スロットにおいて均一かつ高強度の相関光子対を生成することに成功した。さらに、光コム形成プロセスの高精度なフィードバック制御系を構築し、各チャネル間での干渉を物理的に抑制している。
実用化に向けた前提条件(Prerequisites)に対する到達水準を整理すると以下の通りとなる。
| 技術的要件 | 従来の研究到達度 | 今回達成された水準 | 実用化に向けた残存課題 |
|---|---|---|---|
| 周波数多重度 | 数チャネル〜十数チャネル | 83チャネル並列接続 | 100チャネル以上の拡張と維持 |
| 波長整合性 | 特殊波長(可視光近傍) | 既存インフラ適合の通信波長帯 | 既存商用DWDMグリッドへの完全適合 |
| メモリ保持時間 | 数十マイクロ秒レベル | ミリ秒級(AFC保持実証) | スピン状態転送による秒単位の保持 |
| システム安定稼働 | 数分〜数十分の実験室稼働 | 複数時間にわたる連続接続実証 | 屋外局舎環境での無人連続運用 |
単一モードの限界を大幅に打破する83多重の同時運用が実証されたことで、光ファイバー網を用いた量子データ通信の実効レートは理論上2桁近く引き上げられる基盤が整った。
参考記事: 量子鍵配送(QKD)とは?究極の暗号技術の仕組みと2030年までの実装シナリオ
量子ハードウェアと通信インフラに生じる構造転換
量子中継器の基盤技術が確立され始めたことは、コンピューティングおよび通信業界の設計思想に転換を迫る。
量子ハードウェア企業:単一クライオスタット集積からの脱却
超伝導方式やシリコンスピン方式を開発するハードウェアベンダーは、希釈冷凍機(クライオスタット)1台あたりの物理量子ビット数を引き上げる集積競争に直面している。しかし、極低温空間への配線密集、熱負荷、クロストークの物理限界により、単一筐体内に数万〜数百万ビットを収めるアプローチは工学的限界を迎えつつある。
中継器を介した光インターコネクトが実用域に入れば、数十〜数百量子ビットを搭載したモジュール型クライオスタットを光ファイバーで相互接続し、全体として巨大なクラスタを構成する「分散量子コンピューティング」が可能となる。開発の主戦場はチップレベルの微細加工技術だけでなく、量子状態をマイクロ波から光波へ変換するインターフェース技術や、ノード間接続プロトコルへ分散していく。
通信キャリア:ダークファイバー活用と量子通信インフラの主導権
通信キャリアにとって、既存の光ファイバー網(ダークファイバー)の資産価値が再定義される。これまでの量子暗号通信(QKD)の実証は、信頼できる中間ノード(Trusted Node)を数百kmごとに配置し、そこで一度暗号鍵を平文に戻して再暗号化する方式が主流であった。この方式は中間拠点での物理的盗聴リスクが排除できない弱点があった。
量子中継器の導入が進めば、平文に戻すことなく純粋な量子もつれを中継する「Un-trusted Node」網が構築可能となる。通信事業者は、国家安全保障レベルの機密通信回線の提供や、遠隔地の量子データセンター同士を結ぶ量子通信レイヤーの規格争いにおいて主導権を握る好機を迎える。
研究機関・大学:基礎物理からシステム工学への移行
物理実験室での単一光子操作を検証するフェーズから、長時間の堅牢性や光モジュールの小型化、屋外敷設ファイバーの揺らぎ補正などを担うシステム工学フェーズへの移行が加速する。デルフト工科大学(オランダ)のQuTechなどが主導してきたダイヤモンドNV中心を用いた量子ネットワーク研究に対し、日本勢は希土類添加結晶による周波数多重技術を軸とした高スループット実装という独自のアプローチで優位性を確立しつつある。
参考記事: 量子コンピュータとは?仕組みからビジネス活用・2030年実用化シナリオまで徹底解説
TechShiftの視点:量子インターコネクト競争とKPI
量子中継器の多重化技術が進展したことにより、分散量子計算の実用化タイムラインは従来想定されていた2030年代半ばから、3〜5年単位で前倒しされる可能性が出てきた。これに伴い、産業構造は単一ハードウェアの集積度を競う段階から、光インターコネクトを核とする「量子データセンター間ネットワーク」規格のエコシステム争いへシフトする。
技術責任者および事業責任者が今後の実用化可否を判断する上で監視すべき指標は、以下の3つの定量的KPIである。
- ファイバー結合後のエンドツーエンド忠実度(Fidelity)90%以上の維持:
周波数多重度を拡大した際、ノイズ混入を排して量子もつれの忠実度を誤り訂正プロトコルが機能する閾値(通常90%以上)で維持できるかどうかが第一の分岐点となる。
- スピン波転送を伴うストレージ時間1秒以上の達成:
今回実証された光コム(AFC)による直接遅延はマイクロ秒からミリ秒オーダーにとどまる。長距離中継を完結させるには、光子の状態を結晶内の核スピン波に転送して1秒以上保持し、必要に応じて光パルスで読み出す技術の統合が必須となる。この結合効率が30%を超えた段階が、実証から商用試作への移行サインとなる。
- 波長変換損失を含めたリンクレート1kHzの突破:
量子プロセッサ(超伝導方式など)のマイクロ波シグナルを光シグナルに変換し、量子メモリに書き込んで中継する一連の変換損失を含め、ノード間でのエンタングルメント生成レートが1kHzを超過するかどうか。1kHzを下回る環境では、耐量子誤り訂正コード(FTQC)をネットワーク越しに協調動作させることが困難である。
これらの指標が実験室レベルからフィールドテスト環境で達成されたタイミングが、量子ネットワーク関連インフラへの設備投資を本格化させるGoサインとなる。
まとめ
横浜国立大学とLQUOMによる周波数多重度83の量子中継基盤システムの開発は、物理的な伝送距離限界とスループット不足という二重の障壁を突破するための重要な技術的一歩である。単一チップの集積化に依存してきた量子コンピューティングのアーキテクチャは、ネットワーク型スケーリングへの転換期を迎えつつある。
技術選定および研究開発投資を担う責任者は、単一マシンの量子ビット数レースのみを追う評価基準を見直す必要がある。自社ハードウェアやアプリケーション基盤が光インターコネクトや分散処理プロトコルへ適応可能か、アーキテクチャの互換性検証を速やかに進めることが求められる。
出典: 日本経済新聞
出典: 横浜国立大学
出典: オプトロニクスONLINE
出典: 商工中金
