米暗号資産金融大手のギャラクシー・デジタル(Galaxy Digital)は2026年7月、ビットコインの耐量子暗号(PQC)対応を推進するため、最大500万ドルの研究開発助成プログラムを立ち上げた。資金決済法の下で顧客資産をコールドウォレットなどで管理する国内暗号資産交換業者も、保有資産の約30%に及ぶ潜在的脆弱性への対応方針策定を迫られる。
機関投資家主導で進むビットコインの耐量子暗号移行と助成エコシステム
暗号資産の基幹プロトコルにおける量子耐性獲得の議論は、従来の学術的な脅威分析から、資本を伴うインフラ防衛フェーズへ進展した。ギャラクシー・デジタルが発表した「Galaxy Bitcoin Quantum Readiness Initiative」は、量子コンピュータの計算能力向上によって既存の公開鍵暗号方式が突破される「Q-Day」を見据えた包括的支援プログラムである。
本イニシアチブは、最大500万ドル(約7億5,000万円)の助成金プール、社内専門リサーチ部門による脆弱性検証、および外部の暗号理論・量子物理学者で構成される「量子諮問評議会(Quantum Advisory Council)」の設立という3本の柱で構成されている。量子諮問評議会には、カルガリー大学のバリー・サンダース(Barry Sanders)教授、ボストン大学のエラン・トローマー(Eran Tromer)教授、マサチューセッツ工科大学(MIT)シーグラント・ノウスフェローのダミアン・ベルベ(Damien Bérubé)氏らが参画し、プロトコル変更に関する技術的評価を実施する。
米国では政府レベルでも耐量子暗号への移行が法制化されている。米国立標準技術研究所(NIST)が2024年8月に初のポスト量子暗号(PQC)標準規格(FIPS 203、FIPS 204、FIPS 205)を正式発行したことを受け、2026年6月にはドナルド・トランプ米大統領が連邦政府機関に対して重要システムのPQC移行を2030年または2031年までに完了させることを義務付ける大統領令に署名した。
機関投資家によるビットコイン保有が拡大する中、プロトコルの暗号学的強靭性は金融市場全体のシステミックリスクに直結する。ギャラクシー・デジタルのイニシアチブ発表直後の2026年7月23日には、米ブラックロック(BlackRock)、フィデリティ・デジタル・アセッツ(Fidelity Digital Assets)、米コインベース(Coinbase)、米ストラテジー(Strategy)、米ブロック(Block)、アンカレッジ・デジタル(Anchorage Digital)、アーク・インベスト(ARK Invest)、ブロックストリーム(Blockstream)を加えた計9社が「Bitcoin Security Consortium」を設立した。同コンソーシアムは、ビットコインのオープンソース開発と長期セキュリティ検証に対し、3年間で計1,500万ドルの資金拠出を表明している。
| 推進主体・枠組み | 拠出規模・期間 | 主な目的 | 参画企業・専門家 |
|---|---|---|---|
| Galaxy Bitcoin Quantum Readiness Initiative | 最大500万ドル | PQC署名方式の統合、移行ツール開発、脆弱性監査 | Galaxy Digital、バリー・サンダース教授(カルガリー大)ほか |
| Bitcoin Security Consortium | 1,500万ドル(3年間) | ビットコインコア開発支援、長期耐量子セキュリティ研究 | BlackRock、Fidelity、Coinbase、Blockstreamほか計9社 |
| 米連邦政府(大統領令に基づく移行計画) | 連邦予算枠組み | 連邦政府機関の暗号システムを2030/2031年までにPQCへ移行 | 米国連邦政府全機関、NIST、CISA |
ビットコインの供給構造を分析すると、量子攻撃に対する耐性はアドレスの形式や運用実務によって大きく異なる。ギャラクシー・リサーチ(Galaxy Research)および暗号資産セキュリティグループ「Project Eleven」の分析によると、公開鍵がブロックチェーン上に露出しているアドレスには約700万BTC(2026年3月公表時の時価で約4,700億ドル相当)が保管されている。
さらにオンチェーン分析企業グラスノード(Glassnode)の推計によれば、全ビットコイン供給量の約30%が潜在的なリスクにさらされている。このうち10%は初期のP2PK(Pay-to-Public-Key)形式など構造的に公開鍵が露出するアドレスに起因し、残る20%は送金歴のあるアドレスの再利用など運用上の不備に起因している。
参考記事: ビットコインに対する量子コンピューティングの脅威とは?暗号解読の真実と2030年代への備え
既存の楕円曲線暗号「secp256k1」が抱える脆弱性と技術的トレードオフ
ビットコインがトランザクションの所有権証明に採用しているデジタル署名アルゴリズムは、楕円曲線暗号(ECC)の一種である「secp256k1」である。ECDSA(楕円曲線デジタル署名アルゴリズム)やTaprootで導入されたSchnorr署名は、いずれも離散対数問題の計算困難性を安全性の根拠としている。
しかし、十分な量子ビット数と誤り訂正機能を備えた誤り耐性型量子コンピュータ(FTQC)が登場し、ショアのアルゴリズム(Shor’s Algorithm)を実行した場合、多項式時間で秘密鍵が導出される。ビットコインの暗号アーキテクチャにおいて、量子脅威が顕在化する領域と耐性を維持できる領域は明確に分かれている。
公開鍵の露出状態による脅威の非対称性
ビットコインのトランザクション構造において、アドレスは通常、公開鍵を暗号学的ハッシュ関数(SHA-256およびRIPEMD-160)で2重にハッシュ化した値として生成される。ハッシュ関数に対する量子攻撃にはグローバーのアルゴリズム(Grover’s Algorithm)が適用されるが、このアルゴリズムによる計算量削減は平方根スケール($O(2^{n/2})$)にとどまる。SHA-256の場合、有効セキュリティ強度は128ビットに半減するものの、現代の計算資源では依然として総当たり攻撃に対して安全である。
問題となるのは、ハッシュ化される前の「生の公開鍵」がブロックチェーン上に記録された場合である。具体的には以下の2つのシナリオで公開鍵が不可逆的に露出する。
- 初期のビットコインプロトコルで用いられたP2PK形式のアドレス、およびSatoshi Nakamotoが採掘したコインベースブロック。
- 未使用トランザクション出力(UTXO)から一度でも送金を行ったアドレス。送金トランザクションの署名検証のために公開鍵をブロードキャストする必要があるためである。
公開鍵が既知となったアドレスに対しては、ショアのアルゴリズムを用いて公開鍵から直接秘密鍵を逆算することが可能となる。これが、約700万BTCに及ぶ資産が「Q-Day」において直接的な盗難リスクに直面する理由である。
PQC署名方式導入におけるブロック容量の制約
ビットコインプロトコルを耐量子化するためには、secp256k1からPQCアルゴリズムへの署名移行が不可欠である。しかし、NIST標準として選定された格子暗号ベースのML-DSA(旧CRYSTALS-Dilithium)やステートレスハッシュベース署名のSLH-DSA(旧SPHINCS+)は、従来の署名方式と比較して鍵長および署名サイズが極めて大きい。
ビットコインのブロックサイズは、SegWit(Segregated Witness)導入後もブロックウェイト上限(4MB)によって厳格に制限されている。署名データ長が肥大化すれば、1ブロックあたりに格納できるトランザクション数が激減し、ネットワークのスループット低下と手数料の高騰を招く。
| 署名アルゴリズム | アルゴリズム種別 | 公開鍵サイズ | 署名サイズ | ビットコインへの統合課題 |
|---|---|---|---|---|
| secp256k1(ECDSA/Schnorr) | 楕円曲線暗号 | 32〜33バイト | 64〜72バイト | 現行規格。ショアのアルゴリズムにより破断可能。 |
| ML-DSA-44(FIPS 204) | 格子暗号(Module-LWE) | 1,312バイト | 2,420バイト | 署名サイズが現行の約35倍。ブロック容量を激しく圧迫。 |
| Falcon-512(NIST PQC) | 格子暗号(NTRU格子) | 897バイト | 666バイト | 署名サイズは比較的小さいが、浮動小数点演算を要し実装検証が困難。 |
| SLH-DSA-SHA2-128s(FIPS 205) | ハッシュベース署名 | 32バイト | 7,856バイト | 鍵サイズは小さいが署名長が過大。検証計算コストが高い。 |
この技術的トレードオフを解消するため、助成金プログラムでは以下のような代替技術の研究が進められている。
第一に、SQIsignなどの同種写像暗号(Isogeny-based Cryptography)や、NISTのPQC追加選定プロセス(第3ラウンド)に残るFAESTなどの対称暗号ベース署名アルゴリズムの最適化である。これらは公開鍵や署名サイズを数百バイト程度に抑えられる可能性がある一方、署名生成や検証に必要な計算リソースの負荷が大きい。
第二に、ゼロ知識証明(STARKsやSNARKs)を用いた「署名アグリゲーション」技術の実装である。個々のトランザクションに含まれる巨大なPQC署名をブロック単位で1つの簡潔な証明に圧縮して検証できれば、オンチェーンのデータフットプリントを劇的に縮小できる。ただし、これらをビットコインのスクリプトシステム上で検証可能にするためには、OP_CATや新たなオペコードの導入を伴うソフトフォークが必要となる。
参考記事: 耐量子暗号(PQC)とは?CISOが急ぐべき暗号インベントリと2030年への移行ロードマップ
国内暗号資産交換業者および金融機関に求められる耐量子化対応
ビットコインの耐量子暗号移行は、単なるコアプロトコルのアップデートにとどまらず、暗号資産交換業者、信託銀行、機関投資家向けカストディアンの業務インフラ全体に影響を及ぼす。
資金決済法およびガイドラインに基づくコールドウォレットの管理実務
日本の暗号資産交換業者は、資金決済法第63条の11第2項および内閣府令に基づき、顧客から預託された暗号資産の95%以上を「インターネットから完全に隔離された環境(コールドウォレット)」で管理することが義務付けられている。
現在、多くの国内交換業者は秘密鍵を安全に分散管理するため、マルチシグネチャ(マルチシグ)や閾値署名方式(MPC-CMPなど)を採用している。しかし、これらの鍵生成プロトコルおよび署名生成ロジックは、基本的にsecp256k1の数学的構造に依存して設計されている。PQCアルゴリズムへの移行に伴い、マルチシグのアドレス生成スクリプトやMPCの計算プロトコル全体を再設計する必要が生じる。
さらに、過去のコールドウォレット運用においてアドレスの再利用が行われていた場合、そのアドレスの公開鍵はすでにブロックチェーン上に露出している。日本暗号資産取引業協会(JVCEA)の自主規制規則に準拠する事業者は、内部監査を通じて公開鍵が露出しているUTXOの残高を特定し、安全なアドレス形式への資金退避(アドレスローテーション)を先行して完了させなければならない。
ハードフォーク議論とカストディ事業者の分岐対応
ビットコインをPQC対応させるためのアップグレード方式には、後方互換性を持つ「ソフトフォーク」と、全ノードの強制更新を伴う「ハードフォーク」の2つの選択肢が存在する。
P2PK形式で放置された休眠アドレス(初期のマイナーやSatoshi Nakamotoが保有する推定100万BTC以上を含む)の資産を量子攻撃から保護する場合、後方互換性の維持は困難を極める。一定の期日(カットオフデイト)を設け、PQCアドレスへの自己送金が行われなかった公開鍵露出アドレスからの出金を凍結・無効化するプロトコル変更を実施する場合、合意形成の難航からコミュニティの分裂(チェーン分岐)が発生するリスクがある。
| 移行シナリオ | プロトコル変更方式 | メリット | デメリット・事業影響 |
|---|---|---|---|
| 任意移行シナリオ | ソフトフォーク(新トランザクションタイプの追加) | 既存ノードとの互換性を維持可能。合意形成が容易。 | 放置された休眠アドレスが量子攻撃により盗難され、市場に大量流出するリスクが残る。 |
| 強制保護シナリオ | ハードフォーク(露出アドレスの無効化・移行制限) | プロトコル全体の完全な耐量子性を達成可能。 | チェーン分岐のリスク。カストディ業者は分岐コイン対応や訴訟リスクへの備えが必要。 |
国内のカストディアンおよび交換業者は、将来的なフォーク議論を想定し、耐量子署名に対応した新しいウォレット基盤を準備するとともに、ブロックチェーン分岐時の取り扱い規約の改定を進める必要がある。
量子耐性獲得に向けて国内組織が直ちに着手すべき具体的プロセス
暗号資産を取り扱う交換業者、Web3インフラ事業者、および暗号資産を自己保有する一般法人は、Q-Dayの到来を待たずに以下の技術的措置を講じる必要がある。
1. 暗号資産インベントリの棚卸しと公開鍵露出アドレスの特定
保有・管理しているすべてのビットコインアドレスについて、UTXOレベルでの露出状態を分類・評価する。
一度でも送金トランザクションを発行したアドレスは、内部に残高が残っていても即座に破棄し、未使用のアドレスへ残高を全額移動する運用の徹底が不可欠である。特に、初期のP2PK形式や古い仕様のマルチシグアドレスを使用し続けている場合は、SegWit(P2WPKH)やTaproot(P2TR)形式など、送金前には公開鍵がハッシュ値で隠蔽されるアドレス形式へのマイグレーションを完了させる。
2. 暗号アジリティ(Crypto-Agility)を備えたウォレットインフラの構築
HSM(ハードウェアセキュリティモジュール)やMPC基盤を選定する際、特定の暗号署名アルゴリズムに固定された製品を避け、署名モジュールの動的差し替えが可能な「暗号アジリティ」を備えたシステム構成へ順次移行する。
NISTが選定したPQCアルゴリズム(ML-DSA等)や、今後標準化が進むステートレス署名方式をファームウェアアップデートのみで組み込めるアーキテクチャを採用することで、ビットコインの仕様変更が決定した際のシステム改修コストを最小化できる。
3. オープンソースプロトコル開発への参画とテストネット検証
国内のエンジニアコミュニティおよび暗号資産関連企業は、Galaxy Digitalの助成プログラムやBitcoin Security Consortiumなどのグローバルな枠組みと連携し、署名サイズ圧縮技術やトランザクション検証ノードの負荷テストに直接関与することが求められる。プロトコルの仕様決定プロセスに早期からコミットすることが、移行期における自社システムの事業継続性を担保する最大の手段となる。
出典: 日経クロステック(The Quantum Insider連載)
出典: Galaxy Launches Bitcoin Quantum Readiness Initiative
出典: Bitcoin Is Rising to the Challenge of Quantum Readiness (Galaxy Research)
出典: Bitcoin Security Consortium Announcement (Galaxy Research)
出典: Galaxy Pledges $5M For Developers Quantum Proofing Bitcoin (TradingView / Cointelegraph)
出典: Galaxy Commits $5 Million to Bitcoin Quantum Readiness (Bitcoin Magazine)
