NECは2026年3月末をもって、量子コンピューターの実機ハードウェア開発を終了した。1999年に世界で初めて超電導量子ビットの動作実証に成功した同社だが、公表済みの計算能力は8量子ビットにとどまり、十数年に及ぶ追加投資の回収が困難であると判断した。
27年間の開発史と撤退に至る投資環境の格差
NECは日本の量子情報科学における先駆者であり、1999年に超電導素子を用いた固体量子ビットのコヒーレント制御を世界で初めて実証した実績を持つ。しかし、研究開発の主戦場が基礎物理の実証から大規模集積化へと移る過程で、欧米メガテック企業との投資規模の乖離が拡大した。同社は2026年3月末で実機の自社開発を打ち切り、今後はソフトウェアや要素技術の研究に専念する方針を示している。
黎明期から開発中止までの歩み
NECの量子コンピューター開発は、基礎研究での大きなブレイクスルーから始まった。超電導量子ビットの実証後は、組合せ最適化問題に特化した超電導量子アニーリングマシンの実用化を推進してきた。2023年6月には8量子ビットの検証システムを公開し、将来的な多ビット化ロードマップを掲げていた。
しかし、2025年3月には専用ハードウェア環境に依存していた「ベクトルアニーリング」の専用環境サービスを終了した。ハードウェアの維持および次世代機開発には莫大な継続投資が不可欠であり、単独採算での事業継続が困難となった。2026年3月末の実機開発終了を経て、2026年9月にこの事実が公に報じられた。
| 時期 | 主な出来事と開発フェーズ |
|---|---|
| 1999年 | NEC基礎研究所が世界で初めて超電導量子ビットの動作・制御に成功 |
| 2023年6月 | 超電導量子アニーリング向け8量子ビット検証システムを公開 |
| 2025年3月 | 専用ハードウェアを用いたベクトルアニーリング専用環境サービスを終了 |
| 2026年3月末 | 量子コンピューター実機ハードウェアの開発を終了 |
| 2026年9月 | 実機開発撤退が報道各社より公表、富士通が新方式試作機を公開 |
官民投資規模の決定的な格差
撤退の主因となったのは、実用的な量子計算機の実現に要する投資規模の急激な膨張である。量子ビットの集積化には希釈冷凍機をはじめとする極低温インフラや、超低雑音のマイクロ波制御回路が大量に必要となる。これらを維持・拡張するための資金力において、日本企業と海外勢の間には構造的な開きが生じていた。
| 国・地域・企業 | 投資規模・調達実績 | 備考 |
|---|---|---|
| 中国(政府累計) | 約153億ドル(約2.3兆円) | 2025年時点の政府累計投資額 |
| 米国(政府累計) | 約77億ドル | 国家量子イニシアティブ等による公的支援 |
| 日本(政府累計) | 約32億ドル | 2021年比で約7倍に増額も米中の半分以下 |
| 米PsiQuantum | 累計約2,800億円 | 民間VCやBlackRock等からの調達額 |
経済産業省の「量子コンピュータの産業化に向けた開発の加速及び環境整備事業」などを通じ、日本政府も2025年度に関連予算1,009億円超を計上した。しかし、米中両国の国家予算や、米国の有力スタートアップ1社が調達する民間資金の規模と比較すると、国内個別企業が投じられる研究開発費は見劣りせざるを得ない状況にあった。
参考記事: 量子コンピュータとは?仕組みからビジネス活用・2030年実用化シナリオまで徹底解説
超電導方式のスケーリング限界と新方式へのシフト
量子コンピューター開発が直面するハードルは、単なる資金力にとどまらず、ハードウェアの物理特性に起因する工学的課題にある。NECが採用していた超電導方式は先行優位性を持つ一方で、ビット数の増加に伴う配線問題や冷却負荷の増大という物理的制約を抱えている。
8量子ビットにとどまった超電導方式の工学的障壁
超電導方式は、超電導回路によるジョセフソン接合を利用して人工的な2準位系を形成する。設計の自由度が高くゲート操作速度が数十ナノ秒と極めて高速である半面、量子状態を維持するコヒーレンス時間が短い欠点を持つ。さらに、計算時のエラーを抑制するために約15ミリケルビン(-273.13℃)という絶対零度近傍までの冷却が必要となる。
超電導方式でビット数を数百から数千へと拡張する場合、以下の技術的課題を解決する必要がある。
- 配線の高密度化と熱流入の遮断: 各量子ビットに対して極低温環境外から同軸ケーブルを配線する必要がある。ビット数の増大は冷凍機内部への熱流入を招き、極低温の維持を破綻させる。
- 素子の均一性とクロストークの排除: ジョセフソン接合の製造ばらつきを極小化し、隣接ビット間での意図しない干渉(クロストーク)をゲート忠実度99.9%以上の水準で抑え込む必要がある。
- 読出し系のマルチプレックス化: 複数ビットの信号を単一の伝送線路で読み出す多重化技術が未成熟な場合、冷凍機内の物理空間が配線で埋没する。
IBMやGoogleなどの米大手プラットフォームは、立体多層配線や極低温集積回路(Cryo-CMOS)の内製化により数百ビット規模を達成した。これに対し、NECの公表性能は8ビットにとどまっていた。単独企業が自前で大規模な周辺工学系を開発し続けることは、投資対効果の観点から困難を極めた。
富士通が進めるダイヤモンドスピン方式のアプローチ
NECの撤退により国内における実機開発のけん引役となった富士通は、超電導方式に加えてダイヤモンドスピン方式の開発を加速させている。2026年9月8日、同社は高純度人工ダイヤモンドを用いたプロトタイプを公開した。
ダイヤモンドスピン方式は、ダイヤモンド結晶中の格子欠陥に電子を閉じ込め、そのスピン状態を量子ビットとして利用する技術である。従来の窒素-空孔(NV)センターに代わり、スズ-空孔(SnV)センターを採用した点が特徴となる。
| 評価指標 | 超電導方式(従来型) | ダイヤモンドスピン方式(SnVセンター) |
|---|---|---|
| 動作環境温度 | 約15mK(約-273.13℃) | 約1.55K(約-271.6℃) |
| 主な物理的特徴 | 高速なゲート操作・高集積設計 | 冷却設備の小型化・長コヒーレンス時間 |
| コヒーレンス時間 | 数十〜数百マイクロ秒 | 電子スピン1秒以上・核スピン1分以上 |
| 発光特性(光放出輝度) | 該当なし(マイクロ波制御) | スズ添加により従来比約10倍に向上 |
| 2030年代の目標 | 誤り耐性量子計算の初期実証 | 1,000論理量子ビットの実用計算 |
富士通のプロトタイプは、高純度人工ダイヤモンドにスズを添加することで、NVセンターと比較して光放出輝度を約10倍に向上させた。これにより量子状態の光読出し効率が改善した。
動作温度が1.55Kまで緩和される点は工学的に大きな利点である。希釈冷凍機の大規模な希釈ステージを簡素化できるため、冷却に必要な電力消費と装置フットプリントを抑えられる。さらに、電子スピンで1秒以上、核スピンで1分以上という長いコヒーレンス時間は、複雑な量子誤り訂正符号を実装する上で有利な条件となる。富士通は2030〜2035年度までに1,000論理量子ビットの実現を目標に掲げている。
参考記事: 量子優位性とは?量子超越性・ユーティリティとの違いと2030年までの導入ロードマップ
産業構造の再編と各セクターへの影響
NECのハードウェア開発撤退は、日本の量子エコシステムが直面する現実を浮き彫りにした。量子技術が国家間の覇権争いの対象となる中、国内の産業構造は再編を迫られている。
量子ハードウェア開発企業:超電導の寡占化と新方式への特化
量子ハードウェア市場では、巨額の資本力を持つ米中メガテック企業による超電導方式の寡占化が進んでいる。数十万個の物理量子ビットを並べて誤り耐性量子計算(FTQC)を実現するには、半導体ファウンドリに匹敵する製造設備投資が求められる。
国内ハードウェア企業は、物量戦となる超電導の汎用機開発から距離を置き、ダイヤモンドスピン方式や中性原子方式、光量子方式といった代替アーキテクチャへの特化を余儀なくされている。自前主義からの脱却と、特定の物理系に強みを持つニッチトップ戦略への移行が進む。
行政・標準化機関:単独支援から集中配分と国際連携へ
経済安全保障推進法において、量子情報科学は特定重要技術に指定されている。外為法による輸出管理規則の改正など技術流出対策が進む一方で、国内電機大手のハードウェア撤退は政策的な見直しを促す。
限られた公的資金を全方位に分散させる手法は限界を迎えた。内閣府のムーンショット型研究開発事業目標6などが掲げる「2050年までの汎用量子コンピュータ実現」に向けては、勝ち筋のあるアーキテクチャやプレイヤーへの資金集中が必要となる。あわせて、日米豪印などの国際枠組みを通じたサプライチェーンの共同構築が現実的な解となる。
導入企業:国産実機依存の脱却とクラウド活用
創薬、材料開発、金融工学などで量子計算の活用を目指す国内のユーザー企業にとって、国産実機ハードウェアの利用を前提としたロードマップは修正が必要である。
IBM QuantumやAmazon Braket、Microsoft Azure Quantumなどの海外メガクラウド基盤を前提としたアルゴリズム開発体制へのシフトが不可避となる。ハードウェアの差異を吸収するミドルウェア層やアプリケーション層の開発にリソースを集中させる判断が求められる。
参考記事: 量子クラウドサービスの選定基準と導入ロードマップ|主要プラットフォーム比較からセキュリティ、国内環境まで徹底解説
TechShiftの視点:撤退が突きつける現実的なKPI
NECの撤退は、量子ハードウェア開発が「基礎研究の成果を競う段階」から「数十年にわたり年間数百億円規模を投じ続ける資本力勝負の段階」へ完全に移行したことを示している。
国内エンタープライズの技術責任者や事業責任者は、国産ハードウェアの完成を待つのではなく、自社の量子コンピューティング戦略を実利重視へ再構築しなければならない。今後注視すべき具体的な技術指標および判断基準は以下の通りである。
1. 2量子ビットゲート忠実度(Gate Fidelity)の改善閾値
ハードウェアの性能評価において、物理ビット数以上に重要な指標がゲート忠実度である。現在、誤り耐性を持たないNISQ(中規模量子)マシンからFTQCへの移行には、表面符号などの量子誤り訂正が前提となる。
- 判断基準: 2量子ビットゲート忠実度が「99.9%」を安定して超えるかどうか。
- アクション: 国内外のクラウドプラットフォーム経由で提供されるプロセッサがこの閾値に達していない場合、実務アプリケーションの大規模実装は見送り、古典アルゴリズムのハイブリッド運用に留めるべきである。
2. コヒーレンス時間(T2)と操作時間のマージン比率
ダイヤモンドスピン方式などの新材料系を評価する場合、状態保持時間(コヒーレンス時間)と1ゲートあたりの操作時間の比率が指標となる。
- 判断基準: 操作時間に対するT2の比率が「10の6乗倍」以上を確保できているか。
- アクション: 富士通が公開したSnVセンターのように、核スピンで1分以上の保持が可能であっても、読出しおよび制御に要するレイテンシがボトルネックとなるリスクがある。ベンチマーク結果において実効操作回数が担保されているかを検証する必要がある。
3. クラウド経由でのエラー抑制APIの実装状況
ユーザー企業がハードウェアを意識せずにビジネス課題を解くためには、量子ユーティリティレベルのエラー抑制機能がクラウド環境に組み込まれているかが鍵となる。
- 判断基準: ゼロペナルティ外挿法(ZNE)や確率的エラー消去法(PEC)が、API経由でレイテンシの増大なく自動実行される環境が整備されているか。
- アクション: これらが提供されていない環境でのPoC(概念実証)は、ノイズ起因の誤答解析に過度な工数が割かれるため、投資優先度を下げるべきである。
今後取るべき実務アクション
NECの実機開発終了という事実は、国内量子エコシステムの役割分担が整理された転換点といえる。自社の事業競争力を高めるため、企業は以下のステップで体制を最適化する必要がある。
- ハードウェア自前化前提のR&Dテーマを棚卸しし、アルゴリズム開発へリソースを再配分する
ハードウェアの選定リスクを負う段階は過ぎた。Qiskitなどのオープンソース基盤を活用し、ハードウェア非依存のアルゴリズム資産を形成する開発方針へ切り替える。
- 富士通等のダイヤモンドスピン方式における2030年ロードマップの進捗を四半期ごとにトラッキングする
超電導方式の代替となり得る新方式の物理実装進捗を注視する。特に1.55K環境下での多ビット制御に関する論文や学会発表のデータを収集し、実用化の確度を定期評価する。
- 経済安全保障規則に基づくデータガバナンスを策定する
海外メガクラウドを利用した量子計算の実行において、自社のコア技術や材料配合データを暗号化・秘匿化した状態で計算できる環境を検証する。輸出管理令やデータ保護規制に抵触しない利用規程を整備する。
出典: 47NEWS
出典: 富士通株式会社
出典: QUANTUM BUSINESS MAGAZINE
出典: 日本経済新聞
