中国の中性原子量子コンピューター開発企業である杭州原子矩陣計算有限公司(MatriQ)は、2310個の無欠陥物理量子ビットを配列した商用機の受注を獲得し、累計調達額が10億元規模に達しました。2028年に論理量子ビット100個到達を見込む本ロードマップは、内閣府が推進する「量子未来社会ビジョン」や金融庁のPQC(耐量子計算機暗号)移行計画に対し、暗号更新スケジュールの前倒しを突きつけています。
杭州原子矩陣のシリーズA+調達と中国における量子コンピューティング動向
2025年6月に設立された原子矩陣は、設立からわずか1年あまりの2026年8月にシリーズA+ラウンドの資金調達を完了しました。累計調達額は約10億元(約230億円)に達しており、中国国内の量子ハードウェア開発としては異例のペースで資本を集めています。
本ラウンドには、雲鋒基金(YF Capital)や三七互娯(37 Interactive Entertainment)、普華資本(Puhua Capital)、上海半導体産投(SSEMF)、民銀国際(Minyin International)に加え、財通資本(Caitong Capital)や唐興資本(Tangxing Capital)などの公的・産業ファンドが参画しました。
原子矩陣は2026年7月の世界人工知能大会(WAIC 2026)において、最大2310個の物理量子ビットを安定稼働させる統合型商用実機を展示しました。さらに、同社は商用実機としての技術仕様を確定させ、すでに顧客からの正式な整機受注を確保しています。中国国内では「第15次5カ年計画(2026〜2030年)」において量子科学技術が未来産業の最重点領域に位置づけられており、国家主導の設備投資がスタートアップの商業受注を強く牽引しています。
以下は、原子矩陣の設立から実機受注に至るタイムラインと開発マイルストーンの推移です。
| 時期 | フェーズ・調達 | 達成された技術水準・マイルストーン |
|---|---|---|
| 2024年 | 創業前先行研究 | 300物理量子ビットのプロトタイプシステムを構築 |
| 2025年6月 | 会社設立 | 浙江大学博士・元マックス・プランク研究所研究員の夏席遠CEOが創業 |
| 2025年11月 | シード調達 | 光源資本等の支援を受け、1000ビット無欠陥アレイを検証 |
| 2026年3月 | エンジェル調達 | 2048個の無欠陥物理量子ビットアレイの安定稼働に成功 |
| 2026年7月 | WAIC 2026実機展示 | 2310物理量子ビット実機およびShanghai Cube Proを発表 |
| 2026年8月 | シリーズA+調達 | 数億元を調達、累計10億元規模に到達し商用機の受注を獲得 |
| 2026年9月 | 数貿会(杭州) | MatriQ量子クラウドプラットフォームを一般公開 |
中国国内の量子セクターへの投資総額は、2026年第1四半期だけで32億元(約736億円)を超え、2025年通年の調達総額を上回りました。原子矩陣はその中心的存在として、研究室レベルの物理実験から脱却し、産業用インフラとしての量産・配備段階へ進んでいます。
参考記事: 中性原子量子コンピュータの仕組みと実用化はいつ?Atom Computingが3億ドル調達で加速するFTQCロードマップ
2310物理ビットを支える光ピンセット分離構造とラック統合技術
原子矩陣が実現した2310物理量子ビットの制御は、既存の超電導方式が直面している極低温配線ボトルネックを光学的手法によって回避した点に特徴があります。使用されている物理系は中性ルビジウム87(87Rb)原子であり、レーザー光を集光して形成する「光ピンセット」によって空間上に2次元アレイとしてトラップされます。
ゾーン分離アーキテクチャによるクロストーク抑制
中性原子方式で高忠実度なゲート操作を行う最大の技術的課題は、隣接原子間での不要な光散乱やクロストークの排除にあります。原子矩陣はこの課題を解決するため、量子ビットを保管する「保持エリア」と、リドベルグ励起を起こしてエンタングルメントを生成する「ゲート操作エリア」を空間的に完全に分離する構造を採用しました。
原子は可動式の光ピンセットによって両エリア間を高速移動します。保持エリアでは原子同士を離隔してデコヒーレンスを抑制し、ゲート操作エリアでのみレーザー照射を行って2量子ビット相互作用を引き起こします。この構造的分離によって、計算対象外の量子ビットに対する不要な位相反転や散乱が抑えられ、以下のゲート忠実度を達成しています。
- 1量子ビットゲート忠実度: 99.9%以上
- 2量子ビットゲート忠実度: 99.2%以上
- SPAM(状態準備・測定)忠実度: 99.7%超
これらの数値は、量子誤り訂正符号(QEC)を実行するための理論的閾値(フォールトトレランス閾値:通常99%程度)を単一物理ビット・2量子ビットともに上回っています。
常温真空容器と光学モジュールのラック統合
超電導方式では絶対零度近傍(約15ミリケルビン)を維持する巨大な希釈冷凍機が必要であり、数千本の高周波同軸ケーブルを真空槽内に引き込む配線問題がスケーラビリティの限界となっていました。一方、原子矩陣のシステムは原子自体をレーザー冷却して真空セル内に保持するため、装置外殻に極低温冷却を必要としません。
原子矩陣はWAIC 2026において、真空チャンバー、制御レーザー光学系、高解像度撮像素子、放熱ユニットを標準ラックキャビネット内に統合した商用機を提示しました。実験室に分散していた光学定盤上の装置群を1つの筐体に集約したことで、通常のデータセンター環境に搬入可能な耐振動性と保守性を確保しています。
以下の比較表は、主要な量子ハードウェア方式におけるスケーラビリティ要件の違いをまとめたものです。
| 評価項目 | 中性原子方式(原子矩陣) | 超電導方式(希釈冷凍機型) | イオントラップ方式 |
|---|---|---|---|
| 量子ビット担体 | 真空中のルビジウム87原子 | 半導体基板上の超電導回路 | 電磁場中の捕捉イオン |
| 動作温度 | 室温(原子自身を光冷却) | 10〜15ミリケルビン | 室温または液体ヘリウム温度 |
| ビット拡張機構 | レーザー光ピンセットの多重化 | 物理回路と同軸配線の増設 | 電極チップの多分割化 |
| 物理ビット実績 | 2310個(無欠陥アレイ稼働) | 1000個程度 | 100個未満 |
| 実機フットプリント | 標準ラック数架(極低温槽不要) | 巨大希釈冷凍機と冷却配管群 | 光学ラック複数架 |
スパコン融合装置「Shanghai Cube Pro」への参画
原子矩陣は単体ハードウェアの提供にとどまらず、従来型ハイパフォーマンスコンピューティング(HPC)とのヘテロジニアス結合にも着手しています。算豊情報(Sophgo)主導のもと、上海交通大学や上海模合信息科技(Mohe Information Technology)らと共同開発した量子・スパコン混合演算装置「Shanghai Cube Pro」において、同社は量子プロセッサ部分の実装を担当しました。
Shanghai Cube Proは、AIクラスタのGPU/TPU演算リソースと中性原子量子プロセッサを低遅延バスで直結し、機械学習のサンプリング処理や量子化学計算の固有値探索をオフロードする構成をとっています。超電導方式で問題となる冷凍機外との信号伝送遅延に対し、光学制御信号を直接インターフェースすることでマイクロ秒単位のハイブリッド演算ループを成立させています。
参考記事: 【2027年FTQC実用化】Infleqtion『Sqale』とNVIDIA NVQLinkがもたらす量子・GPU密結合の全貌
FTQCロードマップの前倒しと国内サプライチェーンへの影響
原子矩陣は今回調達した資金をもとに、2026年から2027年にかけて3000個の物理量子ビットの連続補充と30個以上の論理量子ビットの実装を計画しています。さらに2027年から2028年には8000〜1万個の物理量子ビットを配列し、論理量子ビット100個以上によるフォールトトレラント量子計算(FTQC)の達成を目標に掲げました。
この進捗は、物理ビットから論理ビットへの変換レートが約100対1から80対1へと高効率化していることを意味します。この急速な技術進展は、日本の産業構造および暗号セキュリティ戦略に対して直接的な再考を迫るものです。
PQC移行ロードマップにおける3年の前倒し圧力
論理量子ビットが100個規模に達すると、現在のRSA暗号や楕円曲線暗号を直接破るには至らないものの、小規模な誤り訂正回路を用いた実用的なアルゴリズム検証が本格化します。従来、FTQCの本格実用化は2030年代初頭と想定されていましたが、中性原子方式の台頭によってその時期が2027〜2028年へと約3年前倒しされるシナリオが現実味を帯びています。
日本国内では、デジタル庁や金融庁の指針に基づき、政府機関や大手金融機関が2030年を目標に耐量子計算機暗号(PQC)への移行を進めています。しかし、中国勢および米国のスタートアップが2028年に100論理量子ビットを稼働させた場合、「ハーベスト・ナウ・デクリプト・レイター(今データを収集し、将来復号する)」攻撃への防衛期限は大幅に短縮されます。国内の基幹システムを担うSIerやセキュリティベンダーは、暗号アルゴリズム(CRYSTALS-KyberやDilithium等)の置換完了スケジュールを2027年内へ前倒しする対応を迫られることになります。
光学・レーザー部品サプライチェーンの商機と参入障壁
原子矩陣の開発成果は、量子コンピューターの産業サプライチェーンが「極低温冷却工学」から「精密光学・レーザー制御工学」へシフトしている実態を示しています。中性原子方式では、以下のコンポーネントがハードウェアのコア性能を規定します。
- 波長安定化狭線幅レーザー光源(780nm等)
- 音響光学素子(AOM)および電気光学素子(EOM)
- 高分解能空間光変調器(SLM)
- 超高真空セルおよびチタン製非磁性チャンバー
これらは浜松ホトニクスやオキサイドなど、日本国内の光学・光デバイスメーカーが高いシェアと技術蓄積を持つ領域です。超電導方式における希釈冷凍機の寡占構造(フィンランドBlueFors等)に対し、中性原子方式の標準ラック化は日本の光学部品メーカーにとって直接的な供給機会となります。
ただし、原子矩陣は中国国内の高速スイッチチップ企業や学術機関と垂直統合的なエコシステムを形成しており、主要モジュールの内製化を進めています。日本のサプライヤーがこの市場に食い込むためには、単体デバイスの納入にとどまらず、光学モジュールとしてアセンブリされたパッケージ供給能力が要求されます。
参考記事: 量子誤り訂正の基礎からFTQC実現へのロードマップ|最新の実証データと開発戦略まで徹底解説
技術責任者・投資家が直ちに着手すべき判断事項
2310物理量子ビットの無欠陥動作と商用実機の受注実績は、中性原子方式が実験室の原理実証フェーズを終え、データセンターへの配備競争に入ったことを確定させました。企業の技術選定者およびディープテック投資家は、以下の具体的なアクションを通じて自社の技術ロードマップを再同期させる必要があります。
- システム移行計画の期限再設定
暗号化通信およびデータベース暗号について、従来の2030年移行完了計画を2027〜2028年完了へと前倒しし、PQC対応ライブラリのプロトタイピングを直ちに開始すること。
- 光学・ヘテロジニアスHPCへのリソース再配分
量子ハードウェアの評価軸を超電導一辺倒から中性原子方式へ拡大し、自社インフラにおいて標準ラック型量子プロセッサをGPUクラスタとハイブリッド接続する基盤設計の検討を進めること。
出典: 36Kr Japan
出典: 36Kr
出典: 証券時報
出典: 解放日報・上観新聞
出典: 新浪財経
